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御巣鷹山航空機墜落事故「遺体の身元を追って」航空機事故・大量検視の教訓

あわただしかった事故の当日

日航機墜落事故というだれも予想しなかった大惨事が起きた8月12日の夜、県警刑事部は人の出入りがあわただしく、異様な緊張がみなぎっていた。
「大変なことになりました。墜落現場がまだ特定できないので、群馬かどうかはわかりませんが、群馬である可能性は非常に強い」と告げられたのは夜の9時半か10時ごろであった。

この日、県警の久保調査官から緊急に呼び出された警察医は須賀勝久氏(高崎)と私の二人であったが、「ジャンボ機の遭難は日本では初めてのことで、しかも満席に近い状況であるとすれば、わが国最大の航空機事故となる可能性がある。したがって、検視などの体制にいつでも入れるよう、緊急・最善の準備をしてほしい」とのことであった。

そこで須賀氏も私も、県警捜査一課の電話を借用して前橋、高崎その他の警察医に待機の要請をした、しかし、刻々と入る二ユースが気になって電話どころではなく、捜査一課のソファーに腰を掛け、検視や身元確認の初動体制に誤りがないようにするには、どんな準備が最善なのか、と自問自答した。

深夜になっても、確実に群馬であるという二ユースはなく、上野村に現地対策本部を設置するため、遠藤刑事部長ほか数人がものものしい装備で出発するのを見送った。
13日未明、私は家に帰っても眠れるような状況ではなく、不眠不休の日が、この日から始まった。

初動体制にあやまりがないように

生存者の救出が続いている13日、私は一日中仕事が手につかず、あれやこれやと策をねった。検視・身元確認、という仕事は、想像以上に大変な仕事だからである。

即ち、一人でも間違えると取り返しのつかないことになり、「誤り」は絶対に許されないことだからである。

500人を越える遭難者が、どのようなかたちで運び出されるのか。検視や身元確認がどこで、どんな方法で行われるのか。

遺族や、検視に立ち合う私たちが、大混乱におちいらないようにするにはどうしたらよいのだろうか。
本当に一日中仕事が手につかなかった。

警察医への出動依頼

13日の午後から夜にかけて、私は電話機のわきに警祭医会の会員名簿を置き、かたっばしから電話をかけた。3人や5人に電話をするのは簡単だが、20人全員に連絡するのは、容易なことではなかった。

お盆休みで、すでに海や山へ出かけてしまった人もあり、連絡がとれないので、また明日電話をください、という人もあった。

持参するものは、白衣と腕章、診査用具、開口器、筆記用具、それから印鑑も忘れないでもってきてください……と、一応全員に連絡をとり終えたのは13日の夜中であった。
警察医会ができていたので、緊急にお願いした出動要請だったにもかかわら、検視初日の朝から、歯科医の警察医が多数藤岡へ集合してくださったのはうれしいことであった。

苦労したレントゲン装置の調達

身元確認には、歯の特徴(一般には「歯型」といわれる)が大切であることが知られているので、全国各地から、種々の資料が送られて来るとの予想がついた。

特にその中でも、パノラマやデンタルのレントゲンフィルムは大切な資料として送られてくるので、それに対して遺体からのレントゲンを撮影するには、少くとも2台は絶対に必要だと考えた。

そこであちこちに電話をかけて、歯科用のレントゲン装置であまっているものがないかと捜したが、ポンコツで使えない、先日下取りに出してしまった、というような返事しかもどってこなかった。

しかし幸いにも、先輩の高松知三先生から電話をいただき、歯科総合衛生センターに最近買ったばかりのレントゲン装置が2台あるはずだから、会長に相談してみたらどうだ、と教えていただいた。私は早速神戸義二会長に電話でお願いした結果、「大変な事件だ。この際何でも役に立つものは使ってほしい」との了解を得た。私は本当にうれしかった。

早速、歯科材料業者の閑野氏に、明朝6時に県歯の2台のレントゲン装置を積み、藤岡へ運んでもらうよう手配した。そして業者には、印象材や石膏の他ありったけのレントゲン・フィルムを持って来るよう注文した。

用語の統一

検視・身元確認の現場は、おそらく大混乱となるであろうと考えられた。例えば、バス1台、50人の遭難でも大惨事であるのに、520人はまさ1ケタちがいの犠牲者の数だからである。

そこで、身元確認のための最重要な要件の―つとして「用語の統一」をはかっておくことが必要だと考えた。

歯科の専門用語は、日常その仕事にたずさわる人は別として、あまりにも多種にわたり、難解な言葉が多いからである。

そこで、警察関係者、遺族とその関係者、そして検視に協力する医師・歯科医師の全員に、同じ理解が得られ、共通の情報となる用語を選び出す必要があると考えた。そして、

1. 共通の理解が得られるように、できるだけ言葉をやさしくする。

2. 混乱が生じないように、(最大公約数的に)言葉の数を少くする。

3.一般に使われている俗語も(身元確認のために)積極的に使用する。

4.近心(M)、遠心(D)などの記号や符号は最大限に明記してもらう。

5.ありのままを記載し、決して事実以上のことを想像して書かない。

などを用語の統一の基本とし、左の列に「傷病名」に相当する用語を列記し、中の列に「処置」や「充填物」、「補綴物」に相当するものを記入し、右の列に「炭化している」、「離断されている」、「脱落したものと思われる」など、遺体の状況をあらわす用語を列記し、身元確認のためご協カください、と書いて印を押した。

歯の記録・記載例

歯の記録方法は各国さまざまであるが、1968年、FDIで決定した統一化のための記録方法はTwo-DjgitSystemと呼ばれ、永久歯では右上、左上、左下、右下におのおの1234という数字を冠し、あとは日本の社会保険と同じく、中切歯は1、側切歯は2というように記載することになっていて、すでに国際刑事警察機構では、大規模災害被災者の身元確認国際書式の中に組み入れて使用されている(鈴木和男教授著「法歯学」参照)、という事情もあるが、日本における永年の社会保険診療の書式の習慣もあることから、今回の事故では、東歯大法歯学教室の書式を少しアレンジした、群馬県警で採用しているオトントグラムを使用させていただくことにした。

東歯大法歯学教室の書式と多少違うところは①正中線と上下の区別の線(即ち十文字)が入っていること② (左側)(右側)と書き入れ、歯科医師以外の人が左右を間違えないように配慮してあること③オトントグラムの点線をもっと細くし、重ね書きが明瞭に見えるようにしてあること④略式鑑定書として使用できるように「発見日時」「場所」「口腔所見」「昭和月日」「鑑定人、住所、歯科医師名印」等を記入してあること、などである。
この書式は県警捜査第一課が数年前に作成したものだが、今回のような多数遺体の身元確認の実際面で、非常に有効であった。

13日の深夜、急いでこのオトントグラムにてきるだけいろいろな場面を想定しながら「記載例」を書いた。即ち、

① 性別 女性。

② 推定年齢 25~30歳前後。

③(一般所見)顔面の損傷が強く、下顎骨骨折あり、やや肥満体、丸顔……

等々と。

ところが航空機の墜落という大惨事は、まったくわれわれの想像以上のもので、この日の深夜、私が予想した最大限の状況よりも、はるかに悲惨なものであった。

はじめての試みだった「用語の統一」

「用語の統一」については、これが絶対に必要だとは、どの教科書にも書いてないようである。
それは、"多数の医師・歯科医師が、一度に大量の遺体について検視に立ち会うということは、あまりないことだし、特に今回のように、20班以上の検視班が「同時進行」のかたちで検視を行うことが、今まで経験としてなかったからに相違ないと思われる。

そこで「用語の統一」の例を一つひとつ書いていくのに非常なためらいをおぽえた。

そのようなことを実行した例が、自分自身でもまったくないからであった。しかし、絶対に明日は必要だ。これをやっておかなければ大混乱になる、と予想し、13日の深夜(というより、時計は14日の朝までかかり)鉛筆で書いたり消したりしながら、ようやく「用語の統一」を書きあげた。

このことについて、歯科医師の正本光児氏は、東京歯科大学同窓会誌に(日航機遭難遺体の検視に参加して……Ⅱとして)、「…事故発生と同時に県警の最高首脳部の一員として、迅速な確実性を求めるには、前述した用語や記載法の統一を最重要とする必要性を痛感し、それこそ夜を日に継いで不眠不休の緊急大作業を行い、記録紙の印刷から各検視医に徹底するような説明文まで即座に作り上げ、遺体確認作業の計画の立案より実際の行動まで、それこそ何十日もの激務を果たされ……等々」また、「損壊がはげしく、作業に長時間を要する多くの遺体を、大勢の歯科医がみるとなると、作業の一貫性というものの必要性が生じる。即ち用語や記載法の統一、例えば簡明さ、正確さ、わかり易さ、顔面、顎、口腔の状況や歯牙、処置歯の終末状態、修復、補綴などの記載法や図示または表示の方法などがすべての検視医に徹底することが望ましい……」と書いてくださったが、実際にその通りであったし、正木氏の的確な指摘に、私の方がおどろいたほどであった。

検視にそなえ記載例を大量にコピー

歯の記録・記載例や「用語の統一」が書けたのは、13日の深夜というより14日の夜明け近くであったが、前者を左側に、後者を右側に並べ、B4版の大きさにしてこれを大量にコピーした。

検視初日の朝

8月14日の早朝6時、歯科材料業者の閑野氏におこされた。

前夜はほとんど寝る時間がなく、少しでも横になろうと思った矢先であった。

玄関を開けてみると、ライトバンに歯科総合衛生センターから借り受けた2台のレントゲン装置を積み、印象材や石膏、スパチュラ、ラバボールその他の器材もわすれず、歯科用レントゲンのフィルムも店にあるだけ全部持って来たというので、大いに感謝した。

警察医会の田部井副会長も、藤岡の検視の場所がよくわからないので、一緒に連れて行ってほしいと、前日連絡があったので、先生の車と2台で藤岡へ向かった。

藤岡市民体育館が近くなると、急にものものしく警察官の数が増え、検問が2度3度とあった。

市民体育館の玄関付近には、すでに大勢の報道陣がいて、テレピ局の車やテレビカメラを持った人たちでごったがえしていた。

会場の警察官に、これらの品物はこれから検視のために必要な器材であることを説明し、体育館の南側の入り口から2台のレントゲン装置とその他の器具を運び込んだ。

体育館の中は異様な雰囲気につつまれ、多数の警察官が足ばやに立ち働いていた。

検視会場となった市民体育館は、広さ約1,700㎡もあり、天井丈の高い巨大な建物だが、白いパネルでいくつもの区画に区切られ、いろいろと準備が整えられていた。聞くところによると、会場準備の警察官たちは、昨夜は一睡もせず、徹夜だったそうである。

2列に並んでいる検視用のビ二―ルシートのわきに、レントゲン装置その器具を置き、今後の作業については主導的立場にある警察の指示を待つことにした。

館内は西側約3分の1が検視所にあてられ、同時に22体が検視できるようになっていた。畳2枚分ほどの緑色の厚手のビ二―ルシートが敷かれ、そのそばに脚立が一台ずつ立てられていた。これは検視の写真班がこれに登って撮影するためのものであった。各シートにはそれぞれバケツ3個、消毒薬、検視用具、懐中電灯、さらし、ガーゼ、ゴム手袋などが準備され、お線香も忘れずに用意されていた。

その他館内の南側3分の1には検視待ちの棺置場(遺体の仮安置場)、遺族からの事情聴取用の机、医師及び歯科医師の受付、同待機所、検案書作成場所などがあり、さらに北側3分の1が検視を終了した遺体の安置場所という配置がされていた。

張りつめた気持で検視を待つ

8月14日は朝7時ごろから、続々と関係者が集まってきた。群馬県警察医会の医師、歯科医師、日赤救護班の医師、看護婦、地元医師会の医師、それに同行した看護婦など。また警察の方々の動きもにわかにいそがしくなった。

検視、検案にあたる医師団は、須賀警察医ほかの検視経験の豊かな医師たちが、つぎつぎに椅子の上に立ち、携帯用メガホシを使って検案書の記載方法などについての説明をされ、大勢の人たちが混乱しないようにいろいろと配慮がなされていた。

歯科医師は、14日朝出動されたのは14名で、すべて警察医ばかりであった。
私は前日から準備した「歯の記録・記載例」と「用語の統一」の紙を参加された警察医にくばり、これからどんな事態になるか予想、もつかないが、最後までこの書式で検視・身元確認にあたっていただきたい、とお願いした。

広い体育館は、窓という窓は全部裏つきの黒いカーテンで閉ざされ、外部から完全に遮断された状態であった。およそ500人という多勢の人々の集団で、館内の温度は時間とともにあがり、想像を絶する状態となった。検視開始にあたって測定された外気温は、10時少し過ぎで、すでに35度を超えていた。

いよいよ、県警の久保刑事調査官から、最初の柩が到着したとの知らせがあった。時計は10時を少し過ぎたころであった。

市民体育館に搬入された柩は、検視総括係の受付員によって、完全遺体と離断遺体に区分され、遺体区分別に検視番号がつけられた。

つぎつぎと柩が運び込まれ、あっという間に遺体の仮安置場所は柩でいっぱいになった。

検視は警察官5~6名と医師2名(内科系、外科系)、看護婦3名、歯のある場合は歯科医師2名で1グループとし、検視開始にあたっては、死者に対する礼を失することのないようにと、検視官の号令により、関係者が一同手を合わせ、一礼することにより始まった。

毛布につつまれた遺体は、丁重に取り出されて、検視用シートの上に安置された後、清拭、検視の警察官によって遺体の計測が行われ、正面、側面、背面と写真撮影が行われる。つづいて頭部から足の先まで、順を追って検視が行われていくが、損傷がはげしく、特に頭部や顔面の大部分が欠落したり、下腹部で離断され、腹部臓器がシート上に流れ出るような状況を見ると、だれ一人としてこの惨状の凄絶さに、衝撃をうけないものはなかった。

しかし、できる限り精密にすべてを記録し、顎骨、歯などが少しでも残っていれば、必ずレントゲンを撮ってくださいと警察医の皆さんにお願いした。

遺体の検視が一応おわると、可能な限り傷の縫合を行い、清拭し、ほほ全身に包帯を巻いて納棺、遺体に最後の一礼をして終わるが。一体の検視に要した時間は平均およそ1時間であった。

館内の温度は連日の猛暑でぐんぐんあがり、38~40度となった。特異な屍臭とむせかえるような湿気、ひたいから流れ落ちる汗が目にしみて痛かった。

窓という窓には黒い天幕が張られているので、館内の空気は暗くよどんだままだ。検視班や大勢の人々のざわめきが一緒になって、地鳴りのように聞こえてくる。モウモウと漂う線香の煙の中、時にはあたりの喧騒を引き裂くようにあがる遺族の悲鳴を聞きながら、はげしく、きつい作業が続けられた。


私が東歯大・法歯学教室"(鈴木和男主任教授)に入室させていただき、法歯学の勉強を始めたのが昭和43年であった。そして間もなく、大久保事件、連合赤軍リンチ殺人事件などたくさんの検視を経験させていただいたが、それらはすべて―体、二体と数えられる遺体であったし、きわめて悲惨な特急列車飛び込み自殺の遺体も、ちらばった遺体を集めれば、正確に―体になった。

ところが、今回の惨事だけは、今までの経験とは別であった。私にとって、強烈な印象として脳裏にやきついていることを、いくつかあげるとーー。

(1) 後頭部の頭皮や頭髪が、背中側に皮のようにくっついているのに、大切な頭蓋骨、脳、その人の顔などは、どこへ行ってしまったのだろうか (頭の骨や顔や少しでよいから歯牙があれば) と思われる遺体があまりに多かった。

(2)下腹部での離断は、多分シートべルトによるものと考えられるが、「安全姿勢」「安全べルト」が、本来の言葉の意味になっていなかったようにも思われる。下腹部で離断され、内臓が散逸した姿は悲惨であった。

(3)上肢は肘関節からの離断、下肢は膝蓋部からの離断が多かった。そのため、悲しいことに、だれのものとも決定しかねる、手や足や胴体が、冷たい柩の中に多数残された。

(4)離断と炭化が重なって、肉塊、あるいは炭のかけらのようになった多くの遺体の中からも、たくさんの方々の身元の確認ができた。歯の特徴、特にレントゲン写真による照合や、歯科医からのカルテによる確認は、今回の惨事での特筆に価いするものと考える。

(5)子どもの遺体は、特に大勢の方々の涙をさそった。ちぎれた小さな手や足や胴体が、いつまでも私たちの脳裏から消え去ることはないであろう。

初日にして樵伜

一体の検視がおわると、受け付け順を待っていた棺が登録され、ドヤドヤと空いているシートまで運ばれ、新い、検視班が配置されて、検視がはじまる。

「歯はついていますか」「えーと、下半身と右手だけです」私は20体ほどの遺体が2列に並んでいる検視場を走りまわり、頭部があるのに歯科医師の配置されていない班には、歯科医の先生に来てもらうようお願いしたり、しょっちゅう館内放送で呼び出されるので、そちらに走って行ったり、この巨大な戦場に、ルールのようなものができあがるまで、私は大袈裟ではなく、へトへトになるほど走りまわった。(今考えれば、その方法はおろかなことで、どこか定位置にじっとしている方が賢明だった。そして、走りまわることにより、みなさんに迷惑をかけた張本人は私だったかも知れない)しかし、みんなよく頑張った。

「これ、レントゲンン お願いします」「えーと、それ、先生、2~3枚レントゲン連続して撮っておいてください」と気がくるったように走りまわった。

それはなにしろ、大多数の人々が、やったことのない仕事に無理やり追いたてられているようなものだったからだ。

「歯科の先生、お願いします」、「歯科の先生はいらっしゃいませんか」と呼ぶ声が、この大喧噪の中のあちこちから聞こえてくるが、どうしてもその要望にこたえられない時が来た。

救援を求めるか否か

14日の午後、「田部井警察医会副会長を責任者として、近くの歯科医師会々員に、3人でも5人でも都合のつく人に出動を願ったらどうだろう。この棺の数を見てほしい」私はむずかしい決断だが、提案した。

当初は警察医だけで対処するという基本方針のようなものがあったが、次から次へ運び込まれる棺はあとをたたず、体育館の中はびっしりと未検視の棺でうめつくされた。
久保調査官によると。「まだ第一小学校にも棺があり、山からおろした遺体は、絶対に今日中に検視を行う方針で、夜中までかかるのを覚悟してほしい」とのことであった。

それは、山と低地とでは気温が違うので、遺体の変化が非常に早くなったとのことであった。田部井警察医会副会長と何人かの人で、むずかしい決断をすることになった。そして、「ひとまず地元の先生の応援をお願いしよう」ということになり、警察の広報室から藤岡・多野は石岡会長に、富岡・甘楽は守谷会長に、そして安中・碓氷は室橋会長に電話を入れた。

守谷、室橋両会長は幸い連絡がとれ、何とか考えてみよう、とのことであったが、藤岡・多野の石岡会長はその日ちょうど不在だとのことで、体育館に比較的近い前田先生(県歯副会長)に連絡したところ「わかった」という返事をいただいた。

神戸会長や前田副会長は、墜落のあったその日から、兵庫県歯の鹿嶋会長ほかの役員のご遭難に苦慮しておられたという関係もあり、「出動依頼」は一気に県歯レべルにまでのぼっていった。そして、結果的にはそのことは大変よかったと思っている。

県医師会も、ほぼ時を同じくして警察医会のワクをはずし、県医師会及び県歯科医師会は、翌15日から、大量の検視要員を送りこむことになった。

14日午後からタ方にかけて、10人以上の地元の先生たちがかけつけてくれて、検視作業に加わってくださった。朝から多忙をきわめ、ろくに食事もしないで働いた人たちにとって、この応援は何よりもありがたく、うれしかった。

睡眠不足、緊張、そしてあまりの多忙さに、まったく食欲を失い、初日にして早くも樵悴しきってしまったのであった。

14日は、深夜になっても続々と棺が運び込まれた。しかし、一刻も早く遺体を確認したい遺族の心情を考え、帰るに帰れず、深夜になっても頑張る医師、歯科医師が多かった。

14日の検視総数は269体、検視が終了したのが深夜の2時すぎであった。警察官もわれわれも、疲れきって3時近く、ようやく帰路についた。

再びはじまった長い―日

翌日からは、県歯科医師会を通じて各都市区の歯科医師会員に応援出動が要請されたので、前日よりはるかに多数の方々が出動してくださった。しかし、無理もないことで、集合してくださった先生方の中には「どうやればいいんだい」、「やった人と組ましてくれ」といった意見が多かったので、川越警察医や今成警察医が、参加した大勢の会員を集めて、一段高い椅子の上に立ち、「用語の統一」や「歯の記録」などについてこまごまと説明してくださった。私は感激をおぼえた。

警察医会の先生方がこれだけリーダーシップをとってくださるようになれば、きっと軌道に乗るだろう。

私はうれしかった。

前日は私もふくめて、だれもが右往左往だったと思う。


しかし、このまま軌道に乗れば、遺族の方々、警察官、それに歯科医師の三者が、同じ理解の上に立てる。

そして全員が身元確認に協カし合えるに違いないし、どんなに混乱が生じても、身元確認の実際面では必ずスムーズに事がはこぶと確信した。

歯科の先生方が書いてくださった「歯の記録」は、死体検案書とともに身元確認班に提出する重要な書類であり、住所、氏名のほか押印もした「謄本」なので、1枚しかないはずである。これを2枚ずつコピーし、1枚は棺の上に貼ってもらおう、そして、もう1枚は検視番号順に保管すれば、遺族から寄せられた資料との照合が早くできるに違いないと考えた。

朝8時すぎ検視第二日目(15日)の棺がつぎつぎと運び込まれた。きのうから出動された警察医は、全員深夜の2時すぎまで働いたのに、第二日目も早朝からかけつけ、受付から検視の組分け、いろいろな分担割りまで、実にみごとに準備されていくのに、私は本当に感激した。

一刻も早く遺体を確認したいと思う遺族の心情を考え、われわれがやらなければ!……これこそが上州人魂なのだと私は思った。

朝だというのに気温は35度を越え、検視場は再び蒸しぶろのようになった。私は続々と運び込まれる遺体の数に、しばし呆然とした。まだまだこの数倍もの遺体があり、きのうも見たあの離断体や炭化した遺体が、もっともっと増えるのだろうか。私は想像するだけで胸が痛くなった。

検視総括係によって再び遺体番号がつけられ、検視が始められた。真夏のことだから、気のせいだけではあるまい。きのうより死臭がはげしくなり、遺体の変化が激しくなったような気がしてならない。

きょう一日、いつ仕事が終結するのか、だれにもわからないが、長い長い検視の日がまた始まった。

大切なレントゲンと歯の資料

しかし、まだまだ準備のよくできていないことがいろいろあった。いろいろな仕事の責任者を決めた方がよいと考えた。まず、歯科用レントゲンの責任者を、私の独断で中島警察医に依頼した。きのうから彼は必死になって自発的にレントゲンの現像係を引き受け、注射器で液を注入してはもみ、手が茶褐色になるまで頑張ってくれたのを忘れられなかったからであった。

15日の朝、私は自分の診療室からレントゲンの自動現像機をはずし、中島君のために持って来た。そして、体育館の片隅の「歯科用レントゲン現像室」(ピンポン台が格納してあるうす暗い倉庫のような場所)に設置したので、中島レントゲン主任警察医は大変喜んだ。それからあとは、連日彼の手によって何十枚、何百枚のフィルムが現像され、「センタク挟み」にはさまれて乾かされた。

このセンタク挟みは有効だった。検視初日に町で買ってきたプラスチックの安ものだが。8~10個ほどを凧糸のような糸を通して輪にして結べば、立派なフィルム挟みになった。フィルムはうまく輪のために広がり、たくさんあるピンポン台にはさめば、一度に何十人分でも乾かすことができた。

遺体とフィルムを間違えれば人違いのもとになるので、中島レントゲン主任は責任をもってガムテープで遺体番号をガッチりとこのセンタク挟みに張りつけた。

遺族や関係者から集められた、生前の資料の整理も大変であった。

当初からあらゆるルートを通じて、たくさんの生前資料が寄せられたが、最初は長野県の山中と報道され、遺族の関係者や日航の責任者、報道陣、はたまた警察や自衛隊まで、長野から群馬へ大移動したという混乱の中である。資料の宛て先が定まらない初期のうちは、資料がどこに到着するのが正しいのか、われわれにもわからなかった。

しかし、日を追ってたくさんの資料が検視・身元確認本部に集中してとどけられるようになった。

ある資料は、各地の県警本部から群馬県警本部へ送られ、ある資料は日航の各支店から空輸されて群馬にとどき、またある資料は遺族や関係者が、あらゆる経路を通じてとり寄せるという具合であった。

資料は体育館内の「資料室」で受け付け番号をつけて登録され、胸部写真や外科医のカルテなどと「歯科のカルテ・歯科のレントゲン」などが一緒になっていたのを整理し、「歯の資料室」が独立して設置された。

遺族の方々からは、怒りといらだちが警察官たちを通じてぶつけられたが、カルテ、顔写真、レントゲン、作業用模型(スタディ・モデル)、学校の歯科検診票、母子手帖など、すべておのおの様式のちがう資料のため、資料整理は手作業以外には考えられなかった。

この情報の発達した時代に、なぜコンピューターを使わないのか。

遺体を男と女に分けて並べたらどうだ。

血液型でA型、B型、0型という遺体の分け方もあるはずだ。

などなど、遺族の方々の要望はすべて「理解」できたが。この大惨事の中では「手作業」以外に出来ることは何一つなかった。

「歯の資料室」ができあがるまで、いろいろとおしかりをうけたり、どなられたりしたが、混乱の真最中、石北警察医には「歯の資料」の責任者となっていただいた。

遺族の方々や、あらゆる関係者の間にはさまって、じっと忍耐してくれた石北裕警察医、それからレントゲンの責任者を最後までつとめてくれた中島久警察医に心から感謝したい。

明け方までつづいた検視・身元確認

8月15日は、つぎつぎと墜落現場から遺体がおろされ、検視会場のフロアは、スキ間がないほど柩でいっぱいになった。

館内は朝からうだるような熱さだった。墜落の日を入れれば、きょうは4日目になる。

遺体の状況は、さらに悪化した。白く動くものが急に増えたように思われる。屍臭はモウモウとあがる線香のにおいと一緒になって、体の中までしみ込んでしまいそうだ。

ひたいから落ちる汗が、汗なのか涙なのかわからなくなってしまった。顔を拭くにも手が使えないので、白衣の袖が落ちる汗を吸い取ってくれる。

私にはこの頃から、おかしな症状が出て来た。今まで患者さんに「痛いでしょう」くらいに言っていた大きなアフタが口の中に3ツも出ている。

人には言いたくないが、このものはしゃべる時と、物を食べる時に特につらいものだ。

12日に飛行機が落ちた晩から警察に行き、その晩から、数えてみるとほんとうに私の睡眠時間はゼロであった。

12日の晩。夜中に警察から帰りテレビの二ユースにかじりつき、心配で一睡もしなかった。

13日の晩。警察医への連絡や用語の統一などでついに夜が明け、睡眠ゼロ。

14日。藤岡を深夜3時ちかくに出て帰宅。この晩は特に藤岡での「興奮」が家まで続いたため、朝までほとんど一睡もできなかった。

15日。この痛いアフタが私を苦しめているが、私にとって本当につらいのは幾日も睡眠ゼロが続いたことであった。

15日の検視数、合計436体。うち完全体157体。離断体179体。分離体100。検視は12時を過ぎ1時をすぎ2時をすぎ、3時をすぎ、ついに終了したのは夜明けの4時半であった。

この日、私は車のエンジンをかけ、うっすらと東の空が明けるのを見ながら帰路についた。(ところがしばらくすると鬼石町と書いた看板が目にとまり、反対方向に走っているのがわかったので)。この日から私は自家用車に乗るのがこわくなった。

まだまだ続く大量の遺体

8月16日、よくも寝ないで体がつづくものだと感心した。昨晩も夜が明けて帰って来て少し寝ようと努力したが寝られなかった。ビールを飲んでも、日本酒を飲んでも、どうしても寝られない。体がどうにかなってしまったのだろうか。

16日、9時30分、県警の車に乗せてもらって藤岡へ行った。昨晩、反対方向に走ったのは私だけでなく、東京方面へ行ってひきかえしたという話をほかの人からも聞いてほっとした。

16日も墜落現場から多くの遺体がおろされた。やはり遺体の状況は相当に悪化していて。一体の検視に時間がかかる。検視担当者の疲れもあるが、炭化した離断体や内臓だけのもの、性別も年齢も推定する手がかりのない遺体が多くなった。

しかしこの日もまた、ずいぶんたくさんの検視があり、第1日目より多いほどの完全体が検視された。

この日、大型のクーラーが入り、音はうるさいがずいぶん涼しくなった。聞くところによると、航空機の機内を冷やすクーラーとのこと。線香の煙も人いきれも吸い取り、広い体育館の向こう側がよく見えるようになった。

私は久保刑事調査官に相談し、身元未確認遺体の安置所へ行ってみたいと申し出た。
調査官も顔色がわるく、胃が痛むので注射などを受けておられたが、私は夜寝られないことと、口の中が痛いことを話し、ほぼ二人とも病人同士であることで互いにはげまし合った。

未確認遺体はつめたく並んで

検視・確認本部からJALのタクシーで約3分くらいのところに藤岡工業高校、その手前に藤岡女子高校があって、どちらも多数の未確認の遺体が安置されていた。

関係者の出入りのチェックがきびしいので、タクシーも門の手前でおろされ、暑く太陽がまぶしいジャリ道を歩いた。

ここは景色が一転して、今までのような暗いイメージがなく、空気もきれいだった。しかし、私の体はすっかりおかしくなったらしく、まっすぐに歩けない。遺体安置場は新しい体育館でとても広かった。

遺体は広い体育館に6列から8列ぐらい並べられ、棺の数は向こうが小さくなるほど並んでいた。

体育館の左右には静止衛星を使っての電話器が50台ぐらい並べられ、遺族の方々が無料で、どこへでも連絡がとれるように配慮がなされていた。

また遺体安置場のいちばん入り口近くには香を焚く焼香台があり、正面には県内出身の政治家の特大の花輪がかざられていた。

この日は、疲れきった遺族の方々が、まだ出合わない遺体をさがすため、バスで会場に着かれ、自由に不明のご遺体と対面される日であった。
警察官も医師の方々も、この会場には数えるほどしか見あたらず、遺族の方々が泣きながら必死で柩の蓋を開けられるのを手伝った。

蓋を開けるなり「この手、娘に似ているんです」「すみません、これ、血液型は何型ですか」「あの―、教えてください。あそこの足とよく似た足を見かけませんでしたか。もう片方があれば…‥。お父さんには足くびのところに大きなキズがあるはずなんです」「お願いです。この髪の毛、この写真と似ていませんか。先生、この人の顔はどこにあるんですか」

私は、どの質問にも答えがみつからなかった。

検視のすまない遺体がまだまだ山からつぎつぎとおろされているのに、これは早く帰らねば大変だと判断し、急いで検視・身元確認本部へ帰った。そして、うす暗い体育館の中で、今朝から胃袋をつかんで苦しんでいる久保調査官に、藤岡工高と藤岡女高での状況を報告した。

離断体がふえ、歯科はさらに多忙に

16日の検視総数は282体。完全体137。離断体99。分離体46だった。

検視の終了したのが午前2時30分。

17日も18日も検視はつづいた。

これだけ疲れているのに、夜になると寝られないのがいちばんつらかった。

あいかわらず睡眠時間はきわめて少なく、食欲もない。口に出たアフタは治癒しようともせず、目の前の視野が非常にせまくなったようだ。その証拠にうしろや脇から声をかけられても、耳もきこえず返事もできなくなってしまった。

警察医の同僚や、大勢の仲間が心配して、休んだらどうだとすすめてくれた。私はありがたくその忠告を受けた。しかし、「休んではいけない」と思い込んでしまっていたから、次の日も、また次の日も、藤岡へ通った。

検視4日目をすぎたころから、山からおりて来る遺体の数は減り、ほとんどが離断体となった。

ちなみに4日目の検視総数が191体。完全体が59体。5日目の検視総数が107体。完全体は17体。6日目の検視総数は80体。完全体は7体としだいに少なくなった。

しかし、歯科の仕事は、離断体や分離体が多いために、レントゲン撮影や検視がいそがしく、身元確認に立ち合う場面も逆に多くなった。

8月21日夜、ついに私は体育館の裏庭のテントのわきで倒れた。倒れたというのは大げさかもしれないが、体中の力が抜けてしまい、目の前がいよいよせまくなって立っていられなくなった。

一日中動きつづけている体育館の換気扇のドーッ、という音だけがかすかに聞こえ、芝生のつめたさが頬につたわってくるが、何となく意識も音も遠くなっていくようであった。

その夜、私は警察の方々や同僚や家族に荒っぽい言葉を使い、いろいろと迷惑をかけた。そして最終的には、私は自宅近くのホテルの一室に運び込まれ、注射をうけた。

秘密の一室(見舞に来られないように)で5日間休むと、ずいぶん元気になった。義弟の内科医(早川医師)が毎日往診して注射を打ってくれたり、親切な精神科の先生(高野医師)が、いろいろと心配してくださったお陰であった。河村県警本部長からのフルーツの差し入れもありがたかった。

8月27日、再び検視場に顔を出した。

あいかわらず大勢の人々が立ち働いていて、検視の独特の臭いが鼻をついた。

検視は9月29日まで藤岡市民体育館でつづけられ、9月30日からは前橋の県警機動センターに移されたが、機動センターに移ってからも、離断体ではあるが8体収容されている。

おわりに

今回の事故は、同時に520人もの犠牲者が出るという、きわめて悲惨な出来ごとであったが、犠牲となられた方々の死を、決して無駄にすることなく、尊い教訓として受けとめる必要がある。

この大惨事を聞きつけ、多数の法医関係の先生方、大学関係の先生方、その他大勢の方々が遠くからかけつけてくださり、いろいろとご指導ご助言をいただいたことに対し、心から感謝しなければならない。特に東歯大の鈴木教授はじめ、スタッフの先生方は、おどろく程の献身的犠牲を捧げて下さった。

また、ボランティアの人々の差し出される一杯の冷えた麦茶が、いかにわれわれをなごませ、奮起させてくれたことか。

人跡未踏の上野村山中深く、道もなく足場もなく、寝るところもない危険な場所で、連日遺体の搬出やあらゆる作業にあたられた多くの方々のご苦労に比べれば、われわれの働きはささやかなものであった。

520遺体中、518体の身元の確認がなされたことは、関係各位のご努力の賜であるが、参加したわれわれにとっても、大きな驚きと喜びであった。

最後に、犠牲者の方々のご冥福を祈り、多くの方々に感謝しながら筆を置く。
(県警察医会理事・前橋市歯科医師会)


著者の略歴  群馬県警察医会 理事 大国 勉(おおくに つとむ)
[略  歴]
昭和8年  岡山県に生まれる
昭和32年 東京歯科大学卒業
昭和43年 東京歯科大学法歯学教室(鈴木和男主任教授)に入局 法歯学を研鑚
昭和46年 大久保清による「連続女性誘拐殺人事件(大久保事件)」の被害者の検死および身元確認を担当
昭和47年 永田・森らによる「連合赤軍リンチ殺人事件(12人を殺害)」の検死及び身元確認を担当
昭和47年 群馬県警察本部長より「警察医」を拝命
昭和49年 東京歯科大学より学位を授与される 「歯学博士」

      主論文「死後経過に伴う歯の物理化学的変化に関する研究」
昭和59年 群馬県警察本部長より「検視警察医」を拝命
昭和60年 「日航機墜落事故」における検死、特に身元確認の総括責任者として活躍した
平成4年  群馬県警察「特別講師」を任命される

(現 在) 群馬県警察 警察医

     群馬県警察医会 理事

     群馬県警察 特別講師

     群馬県歯科衛生専門学校 講師

     前橋市医師会準看護婦学校 講師

(所属学会)日本法医学会 日本犯罪学会 日本プライマリ・ケア学会

     国際法歯・口腔病学会 東京歯科大学学会 ほか

著書:「歯や骨からの個人識別」 「検死の手引き」 ほか

                           以上