社会の雑学・豆知識

地理、政治経済、乗り物、観光、宗教、時事についての雑学・うんちく・豆知識・トリビアを集めたサイトです。気になった記事や文章を個人のメモとして投稿しています

日本海軍 戦艦 長門 陸奥の特徴、性能、略歴まとめ【海軍艦艇】

▲長門(1937年 S12年 公試中)

▲長門(1944年 S19年 10/21 ボルネオブルネイ泊地にて捷一号に望む直前の姿)

▲陸奥(1941年 S16年 鹿児島湾にて出帥準備を追えた姿)

 

【生い立ち】

 日本の大艦隊建造計画、「八・八艦隊計画」の1番艦として大正9年に建造されたのが「長門」である。

欧米列強に先駆け、40cm砲を採用。世界で最初に40㎝砲を搭載した戦艦となった。

建造中に「ユトランド沖海戦」が勃発。その戦訓を防御面活かし、世界初の「ポスト・ユトランド型」戦艦として竣工した。

主砲40㎝砲連装砲塔4基の他に、14㎝単装砲20門を片舷上甲板に7門、最上甲板に3門搭載した。

副砲搭のニ階建ては世界でも初めてのことで、射撃時の視界が広く、立体化されるという優れた着想であった。

対空兵装は8cm高角砲を4門装備。53cm魚雷発射管を水上・水中ともに4基ずつ搭載した。

防御面も抜かりなく徹底した集中防御を施し、ニ重の防御縦隔壁と水防区画の細分化を行っている。

前檣は三脚をやめ、中心に1本の太い柱とその周りに6本の支柱を立てた「檣楼」に変更された。

これは支柱の半分が敵の攻撃で破壊されても、檣楼は崩れないという考えによる。また、日本戦艦では初めて10mの大型測距儀を建造時から搭載した。

このように、長門は防御面、攻撃面での充実を図った為常備排水量で3万4千tという、当時では類を見ない巨艦になった。

しかし、ただ大きいだけではなく機関出力8万馬力は「扶桑」の2倍、金剛型を25%凌ぐという大出力であった(当時の)。

これにより、速力は当時の常識を超える快速26.5ノットを発揮。当時高速戦艦といわれた英国海軍の戦艦が24ノット止まりだったのを考えれば驚異的である。

竣工直後より「長門」は連合艦隊旗艦となり、以後「大和」竣工までの21年間、他艦と交代しながらその任を勤め上げた。

 

【ビッグ7に数えられる】

 「長門」から始まった八・八艦隊も、ワシントン軍縮会議で日本の艦艇保有率が制限され頓挫。多くの建造中艦船が改造・廃艦・建造中止となった。

この時、廃艦リストに同型艦「陸奥」が含まれていたことで会議は紛糾する。

日本は「陸奥は完成している」として俄然受け入れない(実際は工事未了部分が多数あった)。

が、英米は「陸奥」が完成してない事を知っており、これを認めず廃艦を迫った。その後これが原因で会議は決裂寸前に。

(同型艦の「陸奥」がなくなると、「長門」は孤立し戦隊を組めなくなる上、戦力比上からも不利になるので、「陸奥」廃艦は死活問題である。)

結局、日本全権の海軍大臣加藤友三郎の尽力により最悪の事態は回避され、「陸奥」の保有は認められることとなった。

「陸奥」存続の条件は、いわばバランス調整の為会議で決定した米国の廃艦を一部復活、英国の新造枠2隻を認める、ということでまとまった。

日本の「長門」「陸奥」を含む、米3隻、英2隻のこれら40㎝砲搭載の7隻を「ビッグ7」と呼ぶ。

 

【露呈した速度】

 日本海軍は当初「長門」の最大速度を23ノットとし、本来の速度を秘匿にしていた。

しかし、米英は「長門はもっと速い」と疑っており、英国は、「長門」の煙突位置など艦上構造物の配置から機関面積を予想、26ノットは出ると予測していた。

そんな時関東大震災が発生。この日連合艦隊は大連沖で訓練中だった。「東京横浜が大震災で全滅らしい」という緊急入電が同日の午後「長門」に届いた。

「長門」の司令部は直ちに全艦の訓練を中止。「各艦は各港に寄港し、災害救助物資を搭載して東京へ」と命令を下し、全速力で東京へ向かった。

(実際のところは情報の錯綜を考慮し、十分に情報収集・整理を行ってから出港したらしく、即日日本に向かったわけではないらしい)。

九州南端をまわり大隈海峡を通過している時、「長門」の後方に英国東洋艦隊旗艦の巡洋艦プリマスが追跡してくるのを発見した。

公海上であり、敵対行動を取っていないのでどうすることもできず、「長門」はそのまま最大速度で東京へ突っ走った。

プリマスは東京湾口まで2000mの間隔を維持したままついてきてしまった。この間に速力測定はすっかり終わっており、プリマスはここで去っていった。

こうして、「長門」の速度は明るみに出てしまった。

だが、世界情勢が安定していた事、英国とは友好国である事、「長門」の改装が近い事などの理由から大した問題にはならなかった。

ちなみに、この時の速力は約27ノット(「長門」の生涯における最高記録?)だったそうだ。

 

【大改装前の改装】

 大正13年、竣工当時から問題だった煙突からの煙の逆流を防ぐ為、煙突を後方に大きく湾曲させる工事を実施した。

改装後の姿は最初は人気がなかったが、後に国民に広く親しまれ当時のカルタには「陸奥と長門は日本の誇り」という札があるほどだった。

この他、大正14年に副砲射撃指揮所、探照灯照射指揮所など各指揮所を改造した。

大正15年には8cm高角砲を3門増やし7門とした。これは後に12.7㎝高角法に換装され、高射装置も搭載した。

また、大正15年~昭和2年にかけて艦首を改造した。従来のカッターバウ(ボート型艦首)は凌波性に欠け波飛沫が酷かった為である。

「長門」に先んじてまず「陸奥」の改装を実施。今までの丸みを帯びた艦首上部を多少前部に突き出し、やや鋭い形のクリッパー(快速帆船)型に。

この結果、波きりの向上が認められたので、同様の改装を昭和8年に「長門」にも施した。

これ以外では、昭和1年ごろに後檣と第3砲塔の間に水偵1機を搭載した。

 

【近代化大改装】

 昭和9年4月、「長門」は近代改装に入った。この改装の背景は、昭和5年に行われたロンドン会議でさらに英米からの圧力が強まったという事が深く関わっている。

海軍内部ではこの結果を不満とし、条約脱退の声が強まった。それに並行して、各艦艇の改装もこの次期に始まっている。

無条約時代、つまり米英開戦を視野に入れた改装というわけである。

この大改装で行われたのはおおまかに(?)分けて以下の通りである。

1)40㎝砲の仰角を30度から43度に変更。射程が従来より7000m増えて37,000mに。

2)14㎝砲の仰角を25度から35度に変更。また、両舷から1門ずつ撤去。

3)魚雷発射管を撤去。

4)40㎜機銃を25㎜連装機銃10基に換装。

5)防空指揮所を檣楼上に新設。

6)主砲塔基部のバーベットを防御力強化。

7)応急注排水装置を装備。

8)罐を交換して煙路をまとめ、煙突を1本に。

9)速力増化をはかり艦尾を延長。

10)舷側にバルジを装備(バルジ装備はまさに開戦準備であるという証拠である)。

11)ヴァイタルパートの防御力強化(中甲板は12.7㎜甲板、機関室・罐室は7.6㎜、舷側底部の湾曲した防御縦壁は25㎜鋼板を3枚重ね)

12)カタパルト1基、水偵3機を搭載し左舷に起倒式クレーンを設置。

以上、大改装成った「長門」は艦容がガラッと一変。

公試排水量4万3580t、出力8万2千馬力、速力25ノット、航続距離16ノット―1万海里以上というまさに大戦艦に生まれ変わった。

排水量が1万トンも増えたが、速力25ノットを維持できたのは大成功といえる。

開戦前には檣楼上部各所に遮風装置というものを取り付けている。

 

【戦争初期の長門】

 最初の出撃では日中戦争に際し兵員と物資を上海まで輸送。この作戦は成功するも、40㎝砲を撃つ機会は無かった。

日米開戦必至となると、連合艦隊旗艦である「長門」では図上演習が盛んに行われ、真珠湾攻撃作戦が練られた。

そして、真珠湾攻撃日時決定の暗号「ニイタカヤマノボレ 一二〇八(ひとふたまるはち)」がこの「長門」より発せられた事はとても有名だ。

その1週間後に「大和」が完成。長年連合艦隊旗艦を勤めて来た「長門」は遂に旗艦の座を「大和」に明け渡した。

以後、「長門」が再び連合艦隊旗艦となる事はなかった。

翌年、ミッドウェーの後方部隊として出撃するも会敵せず帰還。この後、1944年まで「長門」はトラックと日本を行き来するばかりだった。

 

【陸奥爆沈】

 1943年6/8、柱島に停泊中の「陸奥」は呉で点検・整備を終えた「長門」が回航されるという事で、午後にブイを変更する事となっていた。

この日は予科練生が艦隊実習の為に乗艦するなど艦内は慌しかった。加えて濃霧が立ち込めており、視界は1000m離れている「扶桑」が微かに見える程度だった。

12:10過ぎ、突然白い煙が第3砲塔と第4砲塔の間から噴出したと思うと、大爆発。「陸奥」はそこから真っ二つになり、2分後に沈没した。

「長門」は丁度柱島付近までやってきたところであった。「陸奥」が消えた後には、艦尾と重油の膜が浮かぶだけだった。

「長門」を初め各艦は即座に現場に急行、救助活動が始められた。乗員1474人中、救助されたのは353人だけだった。

直ちに査問委員会が構成され、原因究明の為調査が始まった。火薬庫内で装薬が爆発したのが原因のようであったが、それ以外は何もわからなかった。

自然発火説は否定され、三式弾の爆発や、第3砲塔員の某二等兵が虐めを苦に自爆したなどの憶測が飛び交うも、結局は原因不明で今日に至っている。

僚艦を失った「長門」は、「大和」「武蔵」と同じ戦隊に配属されることとなった。

 

【初めての戦い】

 1944年6/19、マリアナ沖海戦では空母直衛として出撃。初めて敵に向かって40㎝砲を発射した。

しかし、結局敵艦と交戦することなく帰還、対空兵装の強化を実施した。これにより、25㎜機銃は単装30基、連装10基、三連装14基の合計54基(92挺)となった。

10/25の捷一号作戦では栗田艦隊に配属され、レイテ湾を目指した。米護衛空母群との遭遇戦では、建造24年目にして初めて敵艦に向けて砲撃を敢行。

戦果をあげることは出来なかったが、損害も大きくなく無事に内地に帰還した。これが最後の出撃であった。

昭和20年、もはや日本には艦艇を動かす燃料は残っておらず、「長門」をはじめほぼ全ての艦が港に繋留されたまま動けなかった。

「長門」は横須賀の特別警備艦として横須賀に繋留された。この時砲台としての擬装が施され、煙突上部とマストを切断、電探や機銃、副砲も全て撤去された。

「長門」は飛来する米機を相手に戦い、艦橋に爆弾を受け艦長らが戦死し中破するも、海上に浮いたままで終戦を迎えた。

終戦時、連合艦隊の戦艦として行動可能だったのは唯一「長門」だけだった。

戦後処理により「長門」は米国の接収が決定。フリン大佐が艦長として着任し、9/15に横須賀にて米軍に引き渡された。

この時「長門」のマストより降ろされた軍艦旗はフリン大佐が持ち帰っており、2005年9/27の「なんでも鑑定団」に登場し750万の値がついた。

翌年の昭和21年3/18、「長門」は米本土へ回航されるため日本を出港した。

(戦後に鯨漁がいち早く再開されたが、ある業者が船を貸してくれとGHQに依頼した際、リストの一番上に「NAGATO BATTLESHIP DAMEGE」 と書いてあったらしい。

また、日本を離れた「長門」は満身創痍で、速力は8ノットしか出せないという状況であったとか)

 

【最後の戦い】

 翌年の1946年7/1、「長門」はマーシャル諸島ビキニ環礁での水爆実験標的艦として、軽巡「酒匂」他多数の艦艇と共に供された。

「長門」が米国に接収されたのはまさにこの為であったのだ。

この実験は「クロスロード作戦」と呼ばれ、7/1のA実験(空中爆発)、7/25のB実験(水中爆発)の2部構成で行われた。

標的艦は、「長門」、「酒匂」、独巡洋艦プリンツ・オイゲンの他、米国の老朽艦等約70隻が用意された。

(ちなみに、日独伊側の標的艦は上の三隻だけである。また、特に記入がないカタカナ艦は米国の物)

実験では数多くの動物(山羊、豚、ネズミなど)が用意されたが、犬に関しては抗議の手紙が殺到し中止となった。

ちなみに、米国世論は広島・長崎への原爆投下を容認している。

A実験では中心目標として米戦艦ネヴァダを配置、そこから1000mの位置に「長門」と「酒匂」は配置された。

この他、戦艦ニューヨーク、ペンシルヴァニア、軽空母インディペンデンス、巡洋艦ペンサコラ、空母サラトガ、「プリンツ・オイゲン」などが配置された。

午前9時、デイブス・ドリームという愛称のB29からネヴァダを目標に水爆が投下され、300m以下の低空で起爆された。

爆発地点は予定よりやや外れて「長門」から1500mの地点であった。

摂氏約30万度(鉄の融解は約1500度)の炎の中、「酒匂」は上部構造部が一瞬で吹き飛び炎上。船体に多くの亀裂を生じ、翌朝沈没した。

しかし「長門」は艦尾をわずかに損傷した程度。その他の戦艦群も損害はなかった。A実験で沈没したのは、「酒匂」を含め5隻だけであった。

このA実験で「長門」の無事を聞いた当時の農商大臣婦人は「英霊がみんなで船底から長門を支えてるんですよ」と言ったそうだ。

 

続く25日のB実験。今度は水中爆発の実験である。原爆は機雷状にしてLSM60という中型揚陸艦の艦底に吊るされた

「長門」は爆心地より200mの至近距離におかれ、同位置に米戦艦アーカンソー、ネヴァダ、サラトガが配置された。

現地時間7/25午前8時34分59秒7、水爆が起爆した。A実験とは違い強烈な衝撃波が巻き起こり、巨大な水柱が吹き上がった。

LSM60は瞬時に四散沈没、アーカンソーもほぼ同時に沈没。世界で最初に原爆で沈んだ戦艦となった。

サラトガは3時間後より艦尾より沈下が始まり、被爆7時間30分後沈没した。この日は合計で8隻が海面下に姿を消した。

そんな中、「長門」は爆発時にぐらりと揺れただけでびくともしなかった。数時間後艦が右に5度傾いたがそのまま微動だにしなかった。

「長門」の水中防御と水防区画(船体の水防御区画は1089に分かれている)の完璧さがここで発揮されたのである。

米国関係者は度肝を抜かれ、「戦場で長門と戦わなくてよかった」と心底思ったらしい。この場合の戦うが艦隊戦なのかどうかは不明だが。

これは、乗組員が乗艦していれば沈まない(船体が無事でも中の人は無事であるはずはないが)という証明であり、日本造船技術の高さの証明となった。

「長門」の最後の役目は日本戦艦、しいては日本の造船技術の高さを世界に証明することであったと言えるだろう。

「長門」はそれから4日間、そのまま浮き続けた。そして被爆4日後の29日深夜未明、「長門」は誰にも見取られずビキニの海に消えていった。

米国の解体による最後を拒み、沈没。それはまさに米国に対する「勝利」であった。米国との最後の戦いに勝利した「長門」は、まさに「日本の誇り」であった。

(このB実験の際に、意地でも「長門」を沈めようとした米国が「長門」に機雷をくっつけたとか言う話もある)

 

「長門」は現在もビキニの海に沈んでおり、一般のダイバーも潜ることが出来るようである(100万ほど経費がかかるが)。

長門型 性能(【】は陸奥)
排水量 【(基準)43,400t】  (公試)43,580t
長さ (全長)224,94m 【224,5m】 (喫水)221,07m
ボイラー ロ艦本式罐・重油焚×10
タービン 艦本式オールギャードタービン×4 4軸推進
出力 82,000馬力
最大速力 25.0ノット 【25.3ノット】
航続距離 16ノット-10,600海里 【10,090海里】
燃料×満載 重油×5,780t 【5,600t】
乗組員 1,368人
武装 45口径41㎝連装主砲×4 50口径14㎝単装砲×18 40口径12.7㎝連装高射砲×4 25㎜連装機銃×10

長門最終時
45口径41㎝連装主砲×4 50口径14㎝単装砲×16 40口径12.7㎝連装高射砲×4 25㎜三連装機銃×16 連装×10 単装×30
装甲 水線305㎜ 甲板120㎜ 主砲塔356㎜ 司令塔370㎜
飛行機 水上偵察機×3 カタパルト×1

 

艦名の由来

長門 旧国名。現在の山口県北西部。いわゆる長州
陸奥 旧国名。現在の青森県、宮城県、岩手県、福島県にまたがる地域

 長門型年表

 

 

長門
1917年(T6) 8/28 呉海軍工廠で起工
1919年(T8) 11/9 進水
1920年(T9) 11/15 竣工。横須賀鎮守府に籍をおく
  12/1 連合艦隊第1艦隊第1戦隊に編入
1923年(T12) 9/1 大連沖で訓練中に、関東大震災の報を受け東京へ
1924年(T13) 12/1 予備艦に
1925年(T14) 12/1 連合艦隊第1艦隊第1戦隊に編入
1928年(S3) 12/10 練習艦となる
1929年(S4) 5/29 天皇陛下の関西方面行幸のお召し艦となる
1930年(S5) 12/1 連合艦隊第1艦隊第1戦隊に編入
1931年(S6) 12/1 予備艦となる
1934年(S9) 4月 大改装開始
1935年(S10) 11/5 連合艦隊第1艦隊第1戦隊に編入
1936年(S11) 1/31 大改装完了
  2/26 ニ・ニ六事件に際し出動。
  2/27 品川沖より国会議事堂に主砲照準
1937年(S12) 8/15 陸軍第11師団兵員約2000名を上海まで輸送。25日佐世保着
  12/1 練習艦となる
1938年(S13) 12/15 連合艦隊第1艦隊第1戦隊に編入。連合艦隊旗艦となる
1939年(S14) 9/1 和歌山市沖にて新任の山本五十六連合艦隊司令長官を迎える
1941年(S16) 8/11 矢野英雄大佐艦長に着任
  10/9 対米戦争開戦を予想した図上演習が行われる
  12/2 連合艦隊旗艦である長門より、連合艦隊全艦艇に対し「ニイタカヤマノボレ一二〇八」発信
  12/8 機動部隊支援の為柱島出撃
  12/13 小笠原にて反転。柱島へ帰投
1942年(S17) 2/11 連合艦隊旗艦を大和へ委譲
  3/15 呉工廠入渠。九一式風信儀を改ニに換装
  4/9 呉工廠出渠
  5/29 ミッドウェー作戦支援の為柱島出撃
  6/6 ミッドウェー作戦中止。加賀の生存者を駆逐艦より収容。反転
  6/14 柱島着
  7/14 連合艦隊第1艦隊第2戦隊に編入
  7/18 呉工廠入渠
  7/22 呉工廠出渠
  11/10 久宗米次郎大佐艦長に着任
1943年(S18) 1/25 呉工廠入渠。給水タンク修理
  2/2 呉工廠出渠
  5/31 呉工廠入渠。給水タンク修理
  6/6 呉工廠出渠
  8/2 早川幹夫大佐艦長に着任
  8/7 ソロモン作戦支援の為柱島出撃
  8/23 トラック諸島着。作戦支援行動を行いつつ訓練に従事
  10/17 トラック駐留部隊をブラウンへ輸送する為出港
  10/19 ブラウン着
  10/23 ブラウン発。ウェーク諸島南250海里まで進出するも、敵艦発見できず。反転
  10/26 トラック着
  12/15 兄部勇次大佐艦長に着任
1944年(S19) 2/1 米機動部隊の攻撃を避けるべくトラック発。パラオへ
  2/4 パラオ着
  2/16 さらにリンガ泊地へ退避すべくパラオ発
  2/21 リンガ着。訓練に従事
  2/25 連合艦隊第1艦隊第2戦隊から第1戦隊へ。旗艦となる。宇垣纏中将が司令官として着任
  3/30 リンガ発。シンガポールにて修理と整備実施
  4/15 整備終了。リンガへ
  5/4 連合艦隊第1艦隊第1戦隊旗艦を大和へ委譲
  5/11 リンガ発
  5/14 タウイタウイ着
  6/13 「あ号作戦」実施のためタウイタウイ発。ギマラスにて補給後、海戦参加
  6/19 マリアナ沖海戦。損害なし
  6/22 沖縄中城湾着
  6/23 中城湾発
  6/24 瀬戸内海西部にて錨泊
  7/2 人員、軍需品輸送の為呉出港
  7/10 沖縄中城湾着
  7/12 中城湾発
  7/20 マニラを経由しリンガ着。訓練に従事
  10/18 レイテ湾を目指しリンガ発
  10/20 ボルネオのブルネイに入港
  10/22 ブルネイ出撃。栗田艦隊の麾下レイテへ
  10/25 サマール島沖にて米護衛空母群と遭遇。建艦以来初の敵艦への主砲発射。駆逐艦1隻を大破せしむ
  10/28 ブルネイ着
  11/15 連合艦隊第1艦隊第3戦隊に編入
  11/17 ブルネイ発
  11/25 横須賀入港。横須賀工廠に入渠、修理と副砲の撤去を実施
  12/15 渋谷清見大佐艦長に着任
1945年(S20) 1/1 連合艦隊第1艦隊第1戦隊に編入
  2/10 横須賀鎮守府警備艦に
  4/20 予備艦に
  4/27 大塚幹大佐艦長に着任
  6/1 特殊警備艦となる
  7/18 米機の空襲により3発被弾。1発を羅針艦橋に受け、艦長、副長、砲術長戦死
  8/15 終戦。日本の戦艦で唯一、連合艦隊艦艇でわずかな作戦が行動可能な艦であった
  9/15 除籍。米国へ引き渡し
1946年(S21) 7/1 ビキニ環礁にて水爆実験(空中爆発)標的艦として使用される。ほぼ無傷
  7/25 同上(水中爆発)。至近距離より被爆。数時間後傾斜が生じる
  7/29 深夜、人知れず沈没
1996年(H8)    長門沈没位置に朝日新聞記者が潜水。現状が明らかになる。
2003年(H15) 8/26 TV東京「開運!なんでも鑑定団」にて、元乗組員により艦内時計が出品される。20万の値が付く
2005年(H17) 9/27 TV東京「開運!なんでも鑑定団」にて、米国より長門の軍艦旗、少将旗、先任旗が出品される。
依頼主の父が米軍接収時の艦長、フリン大佐より譲り受けたらしい。
それぞれ750万、150万、100万の値が付く。番組収録後、再び米国へ帰ってしまった。
2006年(H18) 9/23 上記の軍艦旗を出演者の石坂浩二氏が1000万円で自費購入。 
軍艦旗は呉の大和ミュージアムに寄贈され、この日同所でお披露目された。



陸奥

1918年(T7)

6/1 横須賀海軍工廠で起工
1920年(T9) 5/31 進水
  7/9 小牧自然大佐艦長に着任
1921年(T10) 10/24 竣工。佐世保鎮守府に籍をおく
  11/8 黒瀬清一大佐艦長に着任
  12月 ワシントン会議で廃艦を迫られるも回避
  12/1 連合艦隊第1艦隊第1戦隊に編入。寺岡平吾大佐艦長に着任
1923年(T12) 9/1 関東大震災発生。避難民輸送
  10月 1番煙突を大きく後方に湾曲(長門もこの時改装か)
  12/1 原敢二郎大佐艦長に着任
1924年(T13) 11/10 米内光政大佐艦長に着任
1925年(T14) 不明 照射指揮所、副砲改造工事を実施
  12/1 予備艦になる。池田他人大佐艦長に着任
1926年(T15/S1) 12/1 連合艦隊第1艦隊第1戦隊に編入。枝原百合一大佐艦長に着任
1927年(S2) 1月 艦首改造
  10/20 大演習及び横浜沖観艦式にてお召し艦になる
  12/1 堀悌吉大佐艦長に着任
1928年(S3) 12/10 吉田善吾大佐艦長に着任
1929年(S4) 11/30 阿部清大佐艦長に着任
1930年(S5) 12/1 予備艦になる。毛内劾大佐艦長に着任
1931年(S6) 12/1 菊野茂大佐艦長に着任
1932年(S7) 5/10 和田専三大佐艦長に着任
  不明 探照燈、高角砲増強
  11/1 安藤隆大佐艦長に着任
  12/1 連合艦隊第1艦隊第1戦隊に編入
1933年(S8) 11/15 予備艦となる。槽谷宗一大佐艦長に着任
  11/20 前檣装置など改装工事
1934年(S9) 6/1 佐世保鎮守府から横須賀鎮守府に転籍
  9/5 横須賀工廠にて大改装開始
  11/15 細萱戊子郎大佐艦長に着任
1935年(S10) 12/2 桑折英三郎大佐艦長に着任
1936年(S11) 9/30 大改装完了
  11/16 後藤英次大佐艦長に着任
  12/1 連合艦隊第1艦隊第1戦隊に編入
1937年(S12) 8/11 北中国への輸送船団護衛のため佐世保出港。15日佐世保帰港
  8/20 陸軍第11師団兵員約2000名を三津浜港より上海まで輸送。23日上海着
  8/24 艦載機にて上海方面陸上作戦支援。翌日佐世保帰港
  9/15 佐世保出港。北中国の警戒に従事。23日帰港
  12/1 高木武雄大佐艦長に着任
1938年(S13) 4/9 佐世保出港。南中国方面にて行動。14日まで
  10/17 佐世保出港。南中国方面にて行動。23日まで
  11/15 後藤存知大佐艦長に着任
  12/15 予備艦になる
1939年(S14) 11/1 保科善四郎大佐艦長に着任
  11/15 連合艦隊第1艦隊第1戦隊に編入
1940年(S15) 3/26 佐世保より南中国方面へ出動。4/2まで
  11/1 小林謙五大佐艦長に着任
1941年(S16) 2/24 佐世保出港。南中国方面にて行動
  8/11 連合艦隊第1戦隊籍に変更。小暮軍治大佐艦長に着任
  8/30 横須賀入港
  9/3 横須賀工廠入渠し整備。13日出渠
  9/21 横須賀出港
  9/23 室積沖へ回航
  12/1 呉工廠入渠。3日出渠
  12/8 ハワイ部隊支援の為柱島出撃
  12/13 小笠原にて反転。柱島へ帰投
1942年(S17) 1/18 大和の射撃訓練の為標的を曳航
  5/29 ミッドウェー作戦支援の為柱島出撃
  6/6 作戦中止、反転。14日柱島着
  6/22 山澄貞次郎大佐艦長に着任
  7/14 連合艦隊第1艦隊第2戦隊に編入
  7/22 呉工廠入渠、整備。29日出渠
  8/11 ソロモン島作戦支援の為柱島出撃
  8/17 トラック諸島着。以後訓練に従事
  8/21 米機動部隊を求めて出撃するも発見できず
  9/22 トラック着。訓練、整備に従事
1943年(S18) 1/7 トラック発
  1/12 横須賀着
  1/29 横須賀工廠入渠、整備。2/6出渠
  2/15 横須賀出港
  2/23 柱島へ回航
  3/4 呉入港
  3/8 柱島に警泊
  4/13 呉で弾薬補給
  6/8 12:10、柱島泊地で第3主砲塔付近で原因不明の爆発、沈没
  9/1 除籍
1970年(S45) 3月 船体の一部や菊の紋章、遺品などが引き上げられる(回収率7割)。それらは各地で展示されている