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リチャード・ドーキンス著『神は妄想である』の要約と批判的検討

この頁では、リチャード・ドーキンス著「神は妄想である」が、いかなる動機で書かれ、その内容でどのような主張であるかをまとめてみた。

後半ではドーキンス主張の正当な部分、根拠の乏しい箇所、問題と思われる点、それから宗教と科学との関係等についての考えを記すつもりです(超難問かもしれない)。 

リチャード・ドーキンス著『神は妄想である―宗教との決別』概要

(垂水雄二訳578頁、2007年5月早川書房) 

目次

1. すこぶる宗教的な不信心者
2. 神がいるという仮説
3. 神の存在を支持する論証
4. ほとんど確実に神が存在しない理由
5. 宗教の起源
6. 道徳の根源―なぜ私たちは善良なのか?
7. 「よい」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神」
8. 宗教のどこが悪いのか?なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?
9. 子供の虐待と、宗教からの逃走
10. 大いに必要とされる断絶?

現代総合進化説(ネオダーウィニズム)の代表格リチャード・ドーキンスが、かくも怒りを込めて、また異常に神経質と思えるほど宗教を挑戦的に批判する事になったのは(帯に、松岡正剛氏による「知の果たし状」として推薦の一文がある)、2001年のアメリカ同時多発テロ事件がきっかけで、そこから宗教との対決姿勢を明白にするようになった…そうだ。彼は2001年10月フリーソート・トゥディに寄稿した論文「立ち上がるべきとき」で、「私のアブラハムの宗教に対する敬意は、9月11日の煙と息を詰まらせるような砂埃の中で吹き飛んだ」と述べ、知性を持つ人々が宗教に対して立上がることを呼びかける。彼が危険視するのは「宗教が歴史上最も煽動的な、敵を標識付けする装置となっている」点にあり、宗教が容易に人々を敵と味方に分類するため(人が人を分け隔てする)、政治的な対立が煽られていると分析し、こうした動機で書かれた著作が「神は妄想である」。かくして彼は、宗教が有害であり、それに対する無神論という選択肢が社会的に認められるべきであると訴えている。

著作は、欧米で一気に150万部以上を売り上げた科学的啓蒙書(学術書でもない)で、宗教に失望した人々の関心を呼び、また一般社会にも幅広く取り上げられたので知名度は抜群である。一方、宗教組織界からは多少の反発を受けた(宗教家があまり読んでいないため反響が少ない、一般には全く無名の英国国教会福音派・ロンドン大学教授のA・E・マクグラスの反論本がある程度)。ドーキンスは神の概念を完全に否定し、人格神への信仰を妄想だと断定し、更に神や宗教という概念で人類はどれほど不利益を蒙ったか、また惑わされているかを科学的に検証する。無神論本は昔から多くあったが、この本は、その表現力と論点の組立てと科学的論考の装いで、多くの欧米人の関心を惹いた。日本ではそこまではいかないが、それなりに売れていて書評の評価も高い。賛否は個人的判断に委ねる事であるが、宗教と科学との軋轢と論争を知る上でも、また宗教をどのように考えていくのかを探る上でも、必読の一書と言える(特に宗教組織に所属する方は)。とっくに避けて通れない問題となっている。

リチャード・ドーキンス略歴

(姓はドーキンズとも表記される、1941年~)

生粋のアングロサクソンで、父の仕事でケニアのナイロビに生まれ幼少を過ごし、英国国教会信徒として育った。9歳の頃「神の存在は嘘である」と考えるが、しばらくして「自然の秩序や目的、複雑なデザインは神の存在の証拠である」とするID論(インテリジェント・デザイン論、注1)に納得して信仰に戻る。その後、様々な人種の人々と接し、それぞれに異なる信仰や考えを持っている事を知り、「国教会の習慣は不条理で、神を用いた道徳の押しつけ」と考えるようになり、16歳で信仰から去る。動物行動学を研究しダーウィニスト(ダーウィン主義者)となると、遺伝子中心視点論(利己的遺伝子・ミーム論、注2)を強く提唱するようになる。1995年チャールズ・シモニー寄付によるオックスフォード大学「科学的精神普及のための寄付講座」初代教授に就任(退職)。研究テーマは動物行動学(進化生物学)だが、神の実在説や超越者による人間創造説を厳しく批判し、その誤りを証明しようとする熱烈な無神論者・反宗教主義者として知られるようになる。

世俗的人本主義とブライト運動(注3)の熱烈支援者で、無神論・合理主義をあらゆる側面から訴え、2006年には「NPO・理性と科学のためのリチャード・ドーキンス財団(RDFRS)」を設立し、信仰と宗教の心理学研究、科学教育プログラムや科学教育教材、世俗的な慈善団体等への支援や融資を行い、ヒューマニズム、合理主義、科学に関する情報や科学教材などの提供を行う。米国ファンダメンタリズム・福音派に最も厳しく「9月11日以降全てが変わってしまった。宗教信仰は無害なナンセンスなどではなく、致命的に有害なナンセンスとなった。宗教は人々の持つ正義感に強固な信念を与えるために危険である。他人を殺害する事への抵抗心をなくし、殺人への誤った勇気を与えるために危険である。異なる伝統を持つ人々に敵というレッテルを張るために危険である」と言う。更にID論批判、一神教批判、有神宗教批判、更には宗教そのものをも否定する(仏教は宗教ではなく哲学と言うらしい)。1967年動物行動学者メリアンと結婚し1984年に離婚、その後エバ・バルハムと結婚し娘ジュリエットを儲けたが再び離婚。1992年共通の友人を介して知合った女優ララ・ウォードと結婚。

 

ドーキンスの考えの背景を知りたい方は、彼のインタビュー記事の日本語翻訳を見ると判り易いだろうか。

 

(注1:ID論)近年アメリカで始まり、聖書から科学的に論証しようとする宗教的な論説である創造科学を基礎にして、より多くの人々に受け入れられるように改編しながら、全てを創った存在を「創造者(神)」と言わず「偉大なる知性(インテリジェント)」と表現し、この知性によって宇宙・地球が設計(デザイン)され創造されたとする論説である。創造科学と違い若い地球説を採らない。創造主の存在を出さずに創造論を暗に示唆する事で、創造論への非難を和らげようとしているが、キリスト教創造論の進化した一類型。一部の科学者はこれを認めるが、多くの科学者からは科学を装った疑似科学だと批判する。

(注2:ミーム論)ミームは、文化的進化における「遺伝子」に相当するドーキンスが著書「利己的な遺伝子」で作った造語。ダーウィン主義的原理のアイデアの広がりと文化的現象の拡張を説明するために使い、観察者が自己複製子であると考えるいかなる文化的実体をも指す語として用いた。多くの文化的実体を、「情報と行動の効率的なコピー機械」として進化した人間を通して増加する自己複製可能な存在と見なす事が出来ると主張した。ミームは必ずしも正確にコピーされないが、そのため洗練される事が可能。他のアイディアと結合したり、修正されたりする過程を経て、新たなミームができ、それが広まることで前身よりも効率的な自己複製子であると立証されるとする。

(注3:ブライト運動)「ブライト」の定義は、自然主義的な世界観を有し、超自然主義的や神秘主義的な要素を持たない事。ブライト運動は、自然主義的な世界観を有する人を指す時、「明るい、頭のよい」を意味する「bright」という形容詞を名詞として使うことを奨励する運動。用語にポジティブなイメージを持たせるというこの運動は、ホモセクシャルを指すときに「陽気、明るい」の意味を持つ「ゲイ」という言葉を使う現代的な用法からインスピレーションを得ている。この運動はミームという概念に多くを依拠し、リチャード・ドーキンスとダニエル・デネットの記事によって広められた。

「神は妄想である―宗教との決別」の超概要(578頁もあるために要約は無理)

無神論者が如何に幸せで、バランスのとれた、倫理的な、知的に満足した人生を送れるかを説明し、破壊的な要素を含んだ宗教が存在のしない世界を想像するよう読者を促す。

 

第1章、すこぶる宗教的な不信心者

タイトルの「delusion(妄想)」を「矛盾する強力な証拠があるにも関わらず、誤った信念をずっと保持する事」と意味づける。ロバート・パーシング「禅とオートバイ修理技術」を引用し、「一人の人物が妄想にとりつかれているとき、それは精神異常と呼ばれる。多くの人間が妄想にとりつかれている時、それは宗教と呼ばれる」と断じる。アインシュタイン「私は人格神を想像しようとは思わない。世界の構造が私達の不完全な五感で察知する事を許してくれる範囲で、その前に立ち畏怖の念に打たれるだけで十分」は、自然や宇宙の神秘を神という表現を用いて比喩的に表している(聖書の神は全く信じない)。ドーキンスはこれを「Einsteinian Religion」と定義。有神論者が想定する宇宙の創造神との違いを論じ、有神論者は彼の名声を利用していると糾弾する。アインシュタインは強固な無神論者だったので何度も罵られ、カルバリ教会連合の設立者は「遅かれ早かれアメリカ中のキリスト教徒が、冒涜的な口を持ったアインシュタインに、そして狂気と誤りに満ちた彼の自然淘汰説に、国外退去通告を言い渡すだろう」と叫んだと言う。またドーキンスは「God Hypothesis(創造神の存在信仰)」について論じ、神の存在は他の全ての仮説同様に科学的に検証されるべきで、科学と宗教の分業論(論争相手であったハーバード大学元教授スティーヴン・グールドのNOMA、科学と宗教は棲み分け可能、注4)を否定する。そして神の概念を次のように分類する。

(A)有神論

宇宙を創造するという主な作業に加え、自分の創造物の運命を監視し、影響を及ぼす超自然的知性の存在を神とする。多くの有神論的信仰では、神は人間界の出来事に密接に関わり、祈りに応え、罪を赦し、あるいは罰し、奇跡を行い、世界に干渉する。人間が善行と悪行に思い悩み、何時それを行うか(そうしようと考える事さえ)知っている。

(B)理神論

超自然的知性を信じるが、その活動は最初に宇宙を支配する法則を決める事に限定される。以降は一切干渉せず、人間世界の出来事に特別な関心を持たない。祈りに応えず、罪や懺悔に関心を持たず、人の考えを読みとらず、気まぐれな奇跡による干渉もしないという点で有神論と異なる。汎神論の神のように宇宙の法則の比喩的あるいは詩的同義語ではなく、一種の宇宙的知性の存在である。

(C)汎神論

超自然的な神は全く信じないが、神という単語を超自然的なものではない(自然)、あるいは宇宙、あるいは宇宙の仕組みを支配する法則性の同義語として使う。

汎神論は潤色された無神論、理神論は薄められた有神論であり、著者が特に批判するのはもちろん有神論。

(注4)グールドは「神と科学は共存できるか?」で、宗教と科学は互いに異なった主題を扱う分野であり、両者の主張は対立しないとするNOMA(Non-OverlappingMAgisteria:重複しない教導権)説を提唱した。科学は経験的な領域を対象とし事実と理論を扱うものであり、一方の宗教は究極的な意味と道徳的な価値の問題を扱い、両者の教導権は重なり合わないと言う。これに基づき、グールドは双方の領域に限界があり、科学は「私たちがいかに振舞うべきかという道徳的な命題には、いかなる根拠も提供しない」と述べた。また、ウィルソンによる人間の本性に基づいて倫理を構成しようとする議論も「自然主義的誤謬」として批判。更に、宗教側の領域侵犯、創造論裁判に代表されるような宗教的信念の科学の場への登場についても批判する。こうして創造主義から科学を防衛しながら、進化生物学の過剰な拡大を阻止するという二つの目的を、NOMAの導入で阻止しようとした。
 

第2章、神がいるという仮説

ラルフ・ウォルド・エマーソン「一つの時代の宗教は、次の時代の大衆文学である」

この章では、神に対するもう一つの見方「不可知論」を二つ紹介する。

(A)実践上の一時的不可知論:本当は明確な答えがあるが、今まではその証拠が欠如している。

(B)原理的に永遠の不可知論:どれだけ証拠を集めても、そもそも証拠という概念が適用できない問いがある。例…「貴方が見ている赤が私の見ている赤と同じかどうか、という古くからある哲学的問いで、貴方が見ている赤はもしかしたら私の緑かもしれない、また私が想像するどんな色とも違ったものかもしれない」。

神の存在の不可知論は(A)に属する。何故なら、神の存在証明は科学的な疑問で、何時か我々はその答えを知る事が出来るかもしれないからだ。(B)ではなく(A)であれば、その確率(蓋然性)の推定値は得られるだろう。そのため以下の7つの段階を設定し、その上で科学的追求を行えば限りなく7に近い6になると断言する。

1. 神は100%の蓋然性で存在する、強力な有神論:「私は信じているのではなく、知っているのだ(C.G.ユング)」
2. 非常に高い蓋然性があるが100%ではない、事実上の有神論:「正確に知る事は出来ないが、神を強く信じており、神がいるという想定の下で日々暮らしている」
3. 50%より高い。厳密には不可知論だが有神論寄り:「確率はやや低いが神を信じたいと思う」
4. 50%で完全な不可知論:「神の存在と非存在はどちらも全く同等にありうる」
5. 50%以下だがそれほど低くなく、厳密には不可知論だが無神論に傾いている:「神が存在するかどうかは分からないが、どちらかといえば懐疑的だ」
6. 非常に低いがゼロではない、事実上の無神論:「正確に知る事は出来ないが、神は非常に有り得ない事と考えており、神は存在しないという想定の下で日々暮らしている」
7. 強力な無神論:「私は、ユングが神の存在を知っているのと同程度の確信で、神がいない事を知っている」

 

第3章、神の存在を支持する論証

トマス・ジェファーソン「神学の教授が我々の憲法に占めるべき場所はない」

ドーキンスは、「神の存在を支持する論証は何世紀にも渡り神学者達により体系化され、誤った常識の普及者を含めた他の人々により補完されてきた」と述べ、カンタベリーの聖アンセルムスや中世の神学者トマス・アクィナス等の有神論者が、神の存在する理由として以下のような「証明」をした事を紹介し、それらを一々反駁する。

(A)先験的(ア・プリオリ)なもの

アンセルムスの存在論的証明:我々は「可能な存在者の中で最大の存在者」を思惟出来る。「任意の属性Pを備えた存在者S」と、「Sと同じだけの属性を備えているが、実際に存在するという属性(Sは備えていない)を余計に備えている存在者S’」では、S’の方が大きい。これから、「可能な存在者の中で最大の存在者」は、論理的必然として「実際に存在する」属性を持たなければならない。ゆえに「可能な存在者の中で最大の存在者」は我々の思惟の中にあるだけでなく、実際に存在する。可能な存在者の中で最大の存在者とは「神」だ。こうして、神は我々の思惟の中に存在するだけでなく実際に存在する事になる。また、祈りという形で語られたものは人間に向かってではなく、初めから神そのものに向かって語られている、祈りを聞き届ける力を持った実体なら、自分自身が確かに存在する事など今更証明して貰うまでも無い筈だ。(ドーキンスの批判:「存在するものこそ完全なものである」という教義は、驚くほどいかがわしい。私の将来の家が断熱設計であれば、そうでないよりも良い家になるだろうと言うのであれば、それは正しい。しかし、もしその家が存在していれば、存在していないより良い家になるだろう」というのは、何を意味するのか?このような重大な結論を、このような言葉の綾・詐術から引出す事が出来るという考え方自体がナンセンスだ)

(B)帰納的(ア・ポステリオリ)なもの:世界の観察に基づく、トマス・アクィナス5つの証明

(1)不動の動者:どんなものも、それに先立って動かす者がいなければ動かない。これは無限の退行へと導き、それから逃れる事ができる唯一のものがある筈。何かが最初の動きを作らなければならず、その何か(第一動者)を私達は神と呼ぶ。(批判1:退行というアイデアに依拠しているが、それに終止符を打つために神を無理やり引張り出したに過ぎない。神の存在を必要とするというだけの理由で、無限の退行に終止符を打つ者を勝手気ままに呼び出し、神と名付ているだけである)

(2)原因なき原因:どんなものも、それ自体により引起こされる事はない。あらゆる作用には先立つ原因があり、これもまた無限の退行へと私達を導く。この退行は最初の原因(第一原因)で終わらなければならず、それを私達は神と呼ぶ。(批判2:批判1と同じ)

(3)宇宙論的論証:いかなる物理的な事物も存在しなかった時が有った筈に違いない。しかし、物理的事物は現に今存在するのだから、事物を存在に至らしめた非物理的な何かが存在したに違いなく、それを私達は神と呼ぶ。(批判3:批判1と同じ)

(4)度合いからの論証:世界の事物に違いがある事に気づく。例えば、善あるいは完全さについては様々な度合いがある。私達はそうした度合いを最大度のものとの比較によってのみ判断する。人間は善くも悪くもどちらでも有りうるから、最大の善は私達の内に有る筈が無い。ゆえに、完全さの基準を定める何らかの最大者が他に存在しなければならず、その最大者を私達は神と呼ぶ。(批判4:善を他のどんな言葉に言換えても通じてしまう)

(5)神学的な論証、或いは設計を持ち出す目的論的論証:世界の事物、ことに生物は目的を持って設計されたかのように見える。私達の知っているもので、目的を持って設計されないで設計されたように見えるものはない。したがって設計者が存在したに違いない。私達はその設計者を神と呼ぶ。(批判5:ダーウィニズムの「自然淘汰・適者生存」で説明できる。周囲の環境という目的に適応したものだけが生き残ったのだから、目的にそぐわない者は存在しないように見える)

この後もドーキンズは、一神教や多神教の神の存在を支持する様々な論証を取上げ、一応の敬意を払う振りをしながら、その実証性の乏しさを辛辣に批判してゆく。

第4章、ほとんど確実に神が存在しない理由

トマス・ジェファーソン「様々な宗派の聖職者達は…科学の進歩を魔女が陽の光の到来を怖れるように怖れ、自分達の生業を成り立たせている詐術の一部を手放さなければならない事を告げる致命的な予兆に顔をしかめる」

人間の知性における最大の難事は、この宇宙と生物が如何に複雑で一見誰かに設計されたとしか思えない程の在り得ない状態を持つに至ったかを説明する事だった。「設計されたような姿が生じたのは、実際に設計されたからだ」と考えたくなるのは自然で、時計等の工作物も設計者は実際に知的な技術者だ。同じ論理をトンボの翅や鷲の目あるいは人間に当てはめ、設計者が存在すると考える事には確かに心をソソられるが、それは誤りだ。何故なら、設計者仮説は「その設計者を誰が設計したのか」という大問題を孕んでいる。我々が取り扱う問題のほぼ全ては、「我々は統計学的な非蓋然性を、如何に説得力のある形で説明するか」に尽きる。

有神論者がよく用いる「ボーイング747のたとえ」を取上げ、「還元不能な複雑さ」についての議論も検証する。「ボーイング747のたとえ」は宇宙論者F・ホイルが提唱したもので、地球上に生命が誕生する確率は、台風がスクラップの置いてある上空を通過した時に、ボーイング機を作り上げるのと同じほど不可能に近いという論証で、創造論者(注5)がダーウィニストを否定する時に用いる代表的な有神論の論理。神の存在を信じる多くの人々が、自然選択のすさまじい力をどれほど理解していないかを良く示す例だとドーキンズは言う。自らの専門である進化生物学の知識を背景に、人類や生命の発生を説明し、生物の解剖学的特徴、細胞の構造、生化学的性格についてのダーウィンやウォリスの研究を説明しながら自らの論証の正当性を明らかにする。最も説明に適しているのがダーウィニズムで、存在するという統計学的な在り得なさと、設計されたようにしか見えない生物が、単純な発端から如何にしてゆっくりと時間を掛けて進化してきた事、これで科学的に示す事が出来る。これに従えば、神はほぼ間違いなく存在しないと言える。

(注5:創造論)宇宙や生命などの起源を創世記に書かれた「創造主なる神」に求める考えで、創造神によって天地万物の全てが創造されたとする様々な議論。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教には、いずれも創造についての色々な教えがある。創造の具体的な過程については、創造の過程に進化的な要素を含むか含まないか、創造に要した時間はどれぐらいか等の点で異なるいくつもの論説が生まれた。米国では創世記をそのまま信じる人の割合は約50%と言われ、何度も論争が起こった。中には、進化論を教えるならば同じ時間だけ創造論も教えろとする主張や、創造主の存在を出さずに創造論を暗に示唆するID論など、立場は多様で複雑。一部の州では生物の教科書で進化論派と創造論派が対立して裁判など社会問題化した。ID論を公教育に取り入れようとする動きに対して、反対派が創造主はスパゲッティ・モンスターだというパロディ宗教「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」を創設して抗議運動を起こした。創造論は聖書根本(原理)主義者の間違った主張であるとする立場では、創造論者の総称を「ファンダメンタル」と呼ぶ事もある。創造論の間違いを主張する媒体はインターネットでも数多く見られる。過激な活動で影響を与えようとする創造論者が米国には存在し、それに対する拒絶反応が、創造を信じないリベラル派に非難する根拠を与えた。信徒が1%にも満たない日本では裁判の例はないが、福音派の教会では創造の教理が信じられて、創造論やID説をチャーチスクールやホームスクーリングで子弟に教える教会や家庭もある。

第5章、宗教の起源

ほぼすべての文化が宗教を有しているのは何故か?宗教は時間や精力を費し過度に装飾的だ。信心深い人の生活を危険に晒すのみならず、他の人の生活も危険に晒す事がある。無数の人間が宗教への忠誠心により拷問され、何処に違いがあるのか分からない狂信的な他教徒の迫害を受けた。つまり、宗教は極めて非効率的な存在だ。ここで動物行動学的なアナロジーを用いて説明する…蛾に代表される多くの虫は炎に飛込んで行く、偶然ではなくわざわざ炎に身を捧げる。一見自殺に見えるが、これは蛾が月の光を頼りに飛ぶという本能行動の不本意な副産物だ。人工的な光源がこれほど多用されるのは最近になってであり、それまで夜間の光といえば月と星で、これらはコンパスとして用いるのに優れていた。しかし、蛾は炎の発する光を月光と錯覚した場合、無常にもそれに飛び込む。この特殊な状況下での焼身自殺行動は致命的だが、蛾のこの経験則は平均的には上手く運んでいる。何故なら、蛾にとって月を見る事に比べれば、蝋燭の炎を見る事は遥かに稀だから。蛾の焼身自殺は、普段であれば役立つコンパスが誤作動した「副産物」と言える。ドーキンスはここで、宗教を「他の何かの副産物である」と論じる。

宗教的行動に「副産物」の考えを応用するとどうなるか?膨大な人間が、実証可能な科学的事実にはっきりと矛盾するような信仰を抱き、競合する他宗教も同じように信奉されている。彼らは信仰の為に死にそして殺す、まるで蛾の焼身自殺と同じだ。この非効率的な宗教的行動は、別の状況では有益あるいはかつて有益だった内的性向の不幸な誤作動・副産物ではないか。祖先の時代には、自然淘汰によって選ばれた性向は、宗教そのものではなかった。では、宗教がXの副産物だとすれば、Xとは何か?それは「子に関する」ものだ。人間は先行する世代の蓄積された経験により生のびる強い傾向を持ち、その経験は「子の幸福及び種の保存」の為に効率的に子孫に伝えられる必要がある。第一に必要とされるのは「大人の言う事は信じよ」という経験則だ。経験則を有した子供達の生残確率は上がり、世代を重ねると有さないものが排除されていく。そこから自ずと導かれるのは、「信じやすい人間は、正しい忠告と正しくない忠告を区別する方法を持たない」事だ。結果、数々の利益と共にもたらされるのが、非合理的な存在にまで及ぶ「妄信」である。宗教は社会における「精神的なウィルス」のように伝染していったのではないか。

第6章、道徳の根源―なぜ私たちは善良なのか?

アルバート・アインシュタイン「奇妙なのは、ここ地球上における私達の状況である。私たち一人一人は、訳も知らないまま、束の間この星に滞在するだけだが、時には、目的を察知しているかのように思える。けれども、日常生活の観点からすれば、私達に分かっている事が一つだけある。すなわち、人間は他の人々の為にここに居るという事である。とりわけ、その人たちの笑みと安寧に、私達自身の幸福がかかっている人々の為にである」

宗教批判者に向けられる意見の一つ「宗教がなければどうして我々は善良でいられようか」がある。ドーキンスはこれに対し、生物学及び倫理2つの観点から答えを示す。

(A)利他的行動と利己的遺伝子

ドーキンスは過去の自著で述べた利己的遺伝子(ミーム、前術の注参照)で説明する。この場合の利己的というのは「自己の生存・繁殖率を如何にして上昇させるか」が至上命題である。一見すると、利己的と道徳は相反すると思われそうだが、実際はそうではない。生物学的に個人が互いに対して利他的で道徳的である事の理由は以下の4つ。これからも、我々は宗教以前の遺伝子レベルですでに「道徳的」だと言える。

1. 遺伝的な血縁という特殊な場合
2. 恩恵へのお返し及びそのお返しを予測した上での恩恵の付与(互恵性)
3. 気前よく親切であるという評判が伝わる事の利益
4. 自身の相手への優位性を示すための行動

(B)有神論者が「神がいなければ道徳が欠落する」という事の自己矛盾

本気で自分が善人であろうと努める唯一の理由が、神の賛同と褒美を得る事、あるいは非難や罰を避ける事だと言うのだろうか?そんなものは道徳ではなく、単なるご機嫌取りかゴマすりで、空にある巨大な監視カメラを肩越しに伺ったり、あるいは貴方の頭の中にあって、貴方のあらゆる動きを、あらゆる卑しい考えさえ監視している小さくて静かな盗聴器を気にするだけではないか?もし神が不在であれば自分は罪を犯すだろう事に同意するのなら、それは不道徳である事の暴露だ。反対に、もし神の監視がなくとも自分は善人であろうと努めるなら、私たちが善人であるのに神が必要だという論理が崩される。

第7章、「良い」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神」

ショーン・オケーシー「政治は何千人も殺してきたが、宗教はその何十倍もの人間を殺してきた」

聖書は世界中で道徳ないし生き方の典拠とされてきた。第一に十戒等の形で直接的な生活規範を明示し、第二に神や聖人達がロールモデル(具体的な行動技術や行動事例を模倣・学習する対象)を示す。どちらの道を辿っても、聖書に準拠する限り、文明化されたあらゆる現代人が醜悪と感じるような道徳体系を推奨する事になる。その理由として、

(A)聖書の内容に理性的には同意できないものが多く存在する。

(B)聖書は何百人という著者により数世紀に渡り編纂・翻訳・歪曲されてきた支離滅裂な文書を、雑然と寄集めて作り上げたアンソロジー(異なる作者による文章作品を集めたもの)で、その内容は奇妙としか形容しようがない。

を挙げる。ここから無神論者ドーキンスの議論に拍車が掛かり、聖書が人類にとって如何に有害であるかを論じ宗教への攻撃に転じる。信徒に非常に好まれる「創世記・ノアの物語」がある。この話はバビロニアのウトナピシュティム神話に由来し、幾つかの古い神話としても知られる。2頭ずつ動物が小船に乗せられる神話は魅力的だが、物語の教訓には唖然となる。神は人間を良く思っておらず、ノアの家族だけ例外に、子供を含めた無数の人間を溺死させ、更に残りの(罪の無い)動物達も溺れさせた。こう言えば当然苛立った神学者達は、もはや自分達は創世記を文字通り受取ったりしないと抗議するだろう。しかし、それこそが私が言いたい核心だ。私達は聖書の断片を選出し、どれを信じるべきかどれを象徴ないし寓話として却下すべきかを選択する。この選出と選択は個人的判断の問題で、この道徳的な教えに従うか、それともあの教えに従うか、絶対的な根拠なしに判断するやり方と五十歩百歩の違いしかない。

そして学識ある神学者の善意にも関わらず、驚くほど多数がノアの箱舟物語を文字通りそのまま受取っている(ギャラップ調査、アメリカ人口の50%)。また、聖書中の女性軽視例を多数指摘する(例、創世記19章7-8節:兄弟たちよ、どうか悪い事はしないでください。わたしにまだ男を知らない娘がふたりあります。わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、好きなようにしてください。ただ、わたしの屋根の下にはいったこの人たちには、何もしないでください)。こうした引用を数多く紹介し、読者に宗教の非倫理性を印象づける。この後でさえも、聖書のあらゆる箇所で人種差別、民族浄化、排他性や差別性を促進するような事を述べていると糾弾し、道徳的な羅針盤として依拠する事の危険性を訴える。

第8章、宗教のどこが悪いのか?なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?

ジョージ・カーリン「宗教は実際に、毎日毎秒貴方のするすべての事を観察している目に見えない―天空で暮らしている―人間が存在すると人々に信じこませてきた。そして、その目に見えない人間は、貴方にしてほしくない10の事柄の特別なリストを持っている。そしてもし貴方がその10のうちのどれかを行えば、彼は火や煙、灼熱、拷問、苦悩などに満ちあふれた特別な部屋を持っていて、貴方をそこへ生きたまま送り込み、時の終わりが来るまで永久に苦しめ、焼き焦がし、息を詰まらせ、泣き叫ばせる…だが、彼は貴方を愛しているのだ!」

ここでドーキンスは、こうした宗教への敵愾心の理由を挙げる。宗教は科学的な営みを積極的に堕落させる。それは人類に知を望ませない事(禁忌性)に相当する。そして社会を悪影響下に置くと言う。何故なら、聖典の真理は論理学で言う公理とされ、推論の過程によって生み出される産物を拒否するからだ。原理主義では聖典こそ真理であり、たとえある証拠(科学的証明、事実など)があっても、聖典のそれと矛盾すると思えるなら、捨去るべきはその証拠であり、聖典ではないとされる。この傾向は、宗教が深く根ざす現代社会制度でも見出せる。例えば、同性愛者への社会的態度。少々極端な例だが、タリバン支配下のアフガニスタンでは、同性愛への正式な罰則は「囚人の体の上に戦車で分厚い壁を倒して生き埋めにする」という。同性愛は成人同士の合意の上で行われる、個人的かつ他者に危害を与えないにも関わらずだ。アメリカでもこの態度が見受けられる。テレビ伝道師パット・ロバートソンは「同性愛者達は教会に入込み、教会の職務を崩壊させ、血をあたりかまわず吹き散らし、人々にエイズを移し聖職者たちの顔に唾を吐きかけたいと願っている」「家族計画は子供たちに姦淫を教え、人々に不倫、あらゆる種類の獣姦、同性愛、聖書が非難するあらゆる事をするように教える」と語ったと言う。

更に、2004年スマトラ地震の際、津波が起こったのは、安息日にバーで酒を飲んだりダンスをして遊んだ者がいたせいだと非難したアジアの聖職者がいたし、2005年のハリケーン・カトリーナの被害で、その地域に多くの同性愛者が住んでいたため「神の怒りを買った」と発言した上記のパット・ロバートソンなどを例とし、他の多くの社会においても、こうした「宗教的根拠に根ざした非合理的な原理主義的差別」は枚挙に暇がなく、宗教的原理主義が実社会で如何に蔓延しているかを述べ、宗教のモラルを痛烈に批判し、宗教を倫理的な指標として扱うべきだという主張を強く厳しく退ける。

第9章、子供の虐待と、宗教からの逃走

ヴィクトル・ユーゴー「どの村にも、灯りをともす教師と、灯りを消していく聖職者がいる」

ドーキンスは続いて、宗教の子供に対する肉体的・精神的な虐待の実例を多く取り上げる。肉体的な虐待は、ローマ・カトリック教会やアイルランドのキリスト修道会における児童虐待行為、精神的な虐待としては地獄の描写に触れる事で生じる幼少期のトラウマなど、それぞれ宗教の有害性として訴える。更に一般的に言えば、真に有害なのは「子供に信仰そのものが美徳であると教える事」である。信仰はいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さない、まさにその理由によって悪である。子供に対して、宗教は疑問を抱く余地もない絶対的な美徳であると教えるのは、彼らを将来のジハードまたは十字軍のための潜在的な凶器として育つ素地を与えてしまう恐れがある。ノーベル物理学賞受賞者スティーブン・ワインバーグも「宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教があってもなくても、善いことをする善人はいるし、悪いことをする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である」と言った。

子供達はこうした教えを、必ずしも狂信的な過激主義者ではなく、穏健な正統的宗教指導者や両親から教えられる。現状を打開する方策として、ドーキンスは「子供の宗教教育からの解放」を提唱する。ほとんどの人間は、子供時代に親の宗教の影響を受けて信仰を持つ。5章でも述べたように、子供は先行する世代の教えに教化されやすいと言う生得的な傾向を持つ。もし、あらゆる科学的証拠に公正かつ適切に親しんでいれば、子供達は成長してから聖書が正しいかどうかを自分で判断するだろう。それは彼らの特権であり、その結果に口出しする筋合いはない。親が圧倒的な力で押し付ける権利などは存在しない。ドーキンスは、宗教こそが親から子供へと移される病原菌やウィルスのような存在であり、物心つく前に宗教に教化された子は善悪の判断が出来るようになる前に、排他的な傾向を作り出す悪菌に感染させられ、深く考える事もないまま、それを次世代に移していくのだと読者に訴える。

第10章、大いに必要とされる断絶?すこぶる宗教的な不信心者

マイケル・シャーマー「100インチ望遠鏡を通して遥か彼方の銀河を覗きこむ。1億年前の化石や50万年前の石器を手に持つ。グランドキャニオンの果てしない空間と時間の深淵の前に佇む。あるいは宇宙創造の様相をじっと凝視して瞬きもしない科学者の言葉に耳を傾ける。そういったこと以上に、魂を揺さぶる事が出来るものが何かあるだろうか?これこそ深く聖なる科学なのだ」

脳には神により満たされるべき隙間があると良く言われる。これは、私達が神を求める心理的欲求を持ち、神が実際に存在しようがしないに関わらず、その欲求は満足させられなければならないと言う。しかし、私達が他の何かで満たした方が良いような隙間を、神がそれを塞ぐ邪魔者になる事はないだろうか?いつしか宗教は、人間生活において説明・訓戒・慰め・インスピレーションという4つの重要要素を満たすものと考えられてきた。歴史的に宗教は、我々の世界や存在理由などの説明役を担ってきた。しかしこの役割は、現在では科学に取って代わられる(4章参照)。訓戒とは私たちの道徳上指針の事で、これも生物学で論ずる事が出来る(6章参照)。残る二つについては、

(A)慰め

死を恐れる人は、不死の魂を持つという真摯な信仰で慰めを得られるだろう。その偽りの信念は、その幻想が崩壊するまで素晴らしい慰めを与えてくれる。しかし何故、信仰を持つ人は死に瀕する人の前で死を祝わず(不死の魂の旅立ちの祝いをしない)、かえって悲しみに暮れるのか。老人ホームでの調べでは、信仰を持った人間はそうでない人よりも死を恐れると言う。これは死にゆく者に慰めを与えるという宗教の効果に疑問を残す結果である。

(B)インスピレーション

私達は、およそ0.1ミリメートルから数キロメートルの大きさに慣れ親しんでいる。この範囲外になると想像力は弱まり、様々な助けを要する。如何なる宗教的なインスピレーションよりも、科学を用いた自己視認範囲の拡大の方が、インスピレーションの増大に繋がる。

こうして科学化された現代社会でも、社会生活の端々で宗教の息吹を感じさせる。日常のちょっとした仕草に、行動する時の指標に、そして政治的決定においてさえもだ。宗教は理不尽であり、信仰には理屈がない。しかし、恐らく存在しないだろう神は、合理的であるべき社会制度にもその影響を与えている。

まとめ

宗教は貴方に虚偽を信じこませ、説明にならない説明で満足感を与えようとする。科学による説明はとても美しくてエレガントだ。多くの人々は、世界と生命のための科学に決して触れる事がなく、それは非常に悲しい事だ。しかし、もしも人々が対立する(宗教)組織による企てにより妨げられているのであれば、それはもっと悲しむべき事であり、それこそが多くの宗教の実態だ、とドーキンスは訴える。

 

リチャード・ドーキンス著「神は妄想である」の問題点

リチャード・ドーキンス著「神は妄想だ」本の帯に「あのドーキンスがなぜここまでむきになるのか?」とあるが、9.11事件が彼の怒りを招いた事は確かだろう。それまでの科学は、ある程度の宗教側の反論を許し、いつでも修正可能な開かれた状態でやや寛容であったのに対して、進化生物学とナチュラリズムで、神の存在の可能性の否定、宗教が強いる思考停止への非難、異教徒への異常なまでの攻撃性、子供への悪影響を、これでもかと言うくらい挙げながら、最後も宗教側の(ドーキンスの心境から言えば)最後の砦「人の心の隙間を何で埋めれば良いのか?」についてさえ攻撃する。さて、ここでドーキンス本の内容や本音、他に宗教と科学についてちょっとだけ考えてみる。

ドーキンス本の正当と思われる部分と、それに付随する問題点

(1)聖書の内容に理性的には同意できないものが多く存在する。

聖書批評学から本文批評学などで、聖書の矛盾点は多すぎるくらい数多くあり、それはすでに指摘されている。新約聖書の福音書ですら、著者とその地域共同体の信仰で書かれていて、その内容は異なると言って良い。著者が異なる事で考え方の相違も見られる。しかし、全く支離滅裂な文書ではなく、旧約聖書のモーセ五書・士師記・列王記・預言書では選民であるイスラエルの「天地創造、イスラエルの選民、部族連合から王政、王制の崩壊・神との断絶が何故起こったのか、神との和解をどうすれが良いのか」が中心テーマとなっている(知恵文学では選民思想、祭祀および律法主義への批判が見られる)。新約聖書の福音書は、イエスを中心に記述されているが、本質はイエスの背景にいる「神が動いたのではないか(福音)」を示唆するものであり、パウロ真正書簡は主に信仰義認と十字架の神学、パウロ偽書簡はその修正と牧会に関するもの、公同書簡は主に信仰義認批判と各地の離散ユダヤ人キリスト者への信仰生活の有り方を示すもの、黙示録はローマ帝国への反抗文学でありかつ終末時の神の介入を期待する文書と思われる。これらは雑然と寄集められたものではなく、各地のキリスト教共同体が編集・編纂した文書を、後に正統派が聖典として整理したアンソロジーである。しかし、古くから伝承された神話・伝説・迷信など、相矛盾する伝承さえも旧約聖書には多く残っている。現在では聖書学や考古学などで、その伝承の歴史性などが検証されている。

理性的で同意できないものは聖書だけに限らず、様々な宗教や芸術などにも多く存在する。人間は理性的であれと言うのは理解できるが、誰しも理性だけで生きているわけではなく、人間の営みをすべて数値的に判断するのは困難だ。勿論ドーキンスはその点も考慮している。宗教と芸術・儀式との関わりには寛容であり、聖書の「コヘレトの言葉」や「雅歌」の文学的価値を認めている。好きな音楽の一つに「マタイ受難曲」を挙げているし、文学や知恵として聖書の言葉を知る必要性も認めていて、結婚式や葬式における宗教儀式への参加も容認しているので、鉄板の無神論・完全無欠の無宗教ではないと思われる。しかし、本の本論をまとめると、こうした事柄が消えてしまうほど宗教への徹底した否定的文言が強いと思われかねない。

(2)原理主義では聖典こそ真理であり、たとえある証拠(科学的証明、事実など)があっても、聖典のそれと矛盾すると思えるなら、捨去るべきはその証拠であり、聖典ではないとされる。

聖典すべてを文字通りそのまま受取り、そのように行動する事で、悪しき弊害が出た事は疑いようも無い。しかし、聖書は神とは如何なるものかを考えた歴史であり、啓示を受けたとされる人々の思考と行動と結果の記録も含まれ、神を信じようとする人の信仰生活の苦闘の歴史的記録と言った方が良い。人間が善にも悪にもなる事も如実に物語っている。聖書を如何に読み、如何に解釈するのかが問題となるし、その解釈次第では集団に弊害が出る事が多いのも事実である。信じるとは、一方では社会の中での自己責任も問われる。聖書には、真理も書かれているが、そうでないと思われるものもあるという事は隠してはならないだろう(宗教側の解釈責任)。

(3)2004年スマトラ地震の際、津波が起こったのは、安息日にバーで酒を飲んだりダンスをして遊んだ者がいたせいだと非難したアジアの聖職者がいたし、2005年のハリケーン・カトリーナの被害で、その地域に多くの同性愛者が住んでいたため「神の怒りを買った」と発言した上記のパット・ロバートソンなどがいる。肉体的な虐待は、ローマ・カトリック教会やアイルランドのキリスト修道会における児童虐待行為、精神的な虐待としては地獄の描写に触れる事で生じる幼少期のトラウマを与えた。

言う通りにトンデモ系の情け無い話。自己責任を果たせない者が多い事は認めなくてはならない。反省なき宗教は批判されるべきだろう。宗教に反省という言葉は死語となっている現状はいまだあるのではないか。地動説のガリレオが宗教裁判で有罪とされ、罪を認める誓約書を書かされて、その後幽閉されたが、カトリックが過ちを認めたのは約300年後であった。

(4)子供に対して、宗教は疑問を抱く余地もない絶対的な美徳であると教えるのは、彼らを将来のジハードまたは十字軍のための潜在的な凶器として育つ素地を与えてしまう恐れがある。

親が子供に科学・芸術・宗教・文学や人としての生き方・考え方を教育をするのはごく普通の事で、その中には宗教的教育も含まれても問題は無いと思う。キリスト教精神の中にある命の尊厳を教える事は有益だろう。特定の教義や解釈をそのまますべて正しいとして教える事には勿論大きな問題がある(例:米国のジーザスキャンプ)。成人になるまでは特定の宗教の信徒にすべきではないとも考える。しかし宗教的な教育(あくまで宗教的である事)は行っても良いのではないか。私の場合は、子供に隣人愛を教えた(キリスト教と言う単位では教えなかった)。結果として子供は自己責任で無宗教であるが、精神は受継がれているし、それで良いと思うが。宗教を一括して(原理主義もそれ以外も同じように)悪い影響があるとするのは飛躍と思われかねない。

(5)最も説明に適しているのがダーウィニズムで、存在するという統計学的な在り得なさと、設計されたようにしか見えない生物が、単純な発端から如何にしてゆっくりと時間を掛けて進化してきた事、これで科学的に示す事が出来る。

現代の生物進化学は、細かな部分で不明な事や異論は多いが(注1)、おおよそ自然選択に落ち着いてきているので、生物学的に生物の変化の現象を上手く説明してきている事に異論はなく、私は当然受容している。現代生物学をあまり理解していない創造論が「進化論は間違いだ」「進化論は部分的に間違っている」という主張に対するドーキンスの科学的反論は正しい。カトリックもとっくに進化論を認めている(ただし、神の存在を否定しないという条件で)。しかし、「これに従えば、神はほぼ間違いなく存在しないと言える」は言いすぎだろう。遺伝子で蛋白合成が出来る仕組みがあるが、なぜそのような仕組みでなくてはならないのか、その根本原理について人間は説明できない。超越した存在がいるかもしれないし、いないと言う証明も出来ない。神の存在は、あるという証明も、無いという証明も出来ない。ドーキンスの「恐らく存在しないだろう神」の「恐らく」は、それを認識している事を示している。

(注1)米ハーバード大学エドワード・ウィルソンはマーティン・ノワクとコリナ・タルニタの数学者と共同で執筆した2010年のネイチャー誌論文で、集団淘汰論(多レベル淘汰論)を展開し、遺伝子淘汰論(包含的淘汰論)のリチャード・ドーキンスに反論を投げかけた。この論文は百名を超える進化生物学者達から強い批判を浴びたが、ドーキンスの「生物の存在は、遺伝子が主体であり生命体はその乗り物にすぎない」に対して、集団はどうなるという挑戦状でもあった。ウイルソンは、集団、血族、個体、遺伝子の全てに着目した多レベル淘汰は数学的に堅固であり、分析的に明晰であり、人間の社会的ふるまいを含む現実の諸事例で上手く働くと主張する。また、中立的立場の学者は、生命体、器官、細胞、遺伝子、或いは遺伝子によって規定されるDNAの部分でさえ、「適者性」を定義する事は不可能な点がある事を指摘している。

(6)クールドのNOMA説の否定

NOMAはグールド著「神と科学は共存できるか?」で作った略語で、NonOverlapping MAgisteria(重複しない教導権)の略。宗教と科学(単に科学と言う場合、自然科学を指す)二つの教導権を認め、お互い決して領域を侵犯しないならば棲み分けが可能であるという理論を現し、「科学では決して扱いきれない問題がある」という永遠の不可知論の立場に基いている。ドーキンスはすでに科学で宗教を侵犯しているからNOMAを認める事は出来ない。また、「お互い決して領域を侵犯しないならば棲み分けが可能」は、1つの世界に2つの世界を作る矛盾が生じ、相互不干渉はそのうち必ず守られなくなり、その場合は争いが起こるので(共存共栄出来ない)、宜しくないという理屈には理がある。しかし、ドーキンスの「科学的に証明できないものは認めない」というのは、未だ未解明な部分が多い宇宙の中に住んでいるドーキンス自身を、証明できないからそこに住む事を認めないと言う自己矛盾に落ちはしないだろうか?(私:グールドは科学と宗教の共生を論考すれば良かっただろうが)。またドーキンスが科学に基づき宗教を説明することに対し、グールドはそうした主張の限界を指摘している点には注目すべきだと考える。自然科学ですべてが説明できると言うのは、人間原理の考えに近い人間の傲慢では無いか?

自然科学派のドーキンスやウィルソン等の考えは、自然科学と人文科学との断絶を招く。ウィルソンは、社会科学者の理解は素朴心理学に基づくため誤りで、特に文化人類学は生物学的人類学の対極に位置し、文化相対主義という新しいイデオロギーにとりつかれていると非難する。更に、宗教の役割を有する「バイオフィリア」から倫理を引き出し、芸術に対する分析までも行なっている。これは人文・社会科学全体に対する「知の挑戦」だ。精神と物質、人間と動物との間に存在するとされてきた壁が消失し、学問体系も一大変革に見舞われる。宗教は「知の挑戦」を受けて解体に晒されつつある。これに対し、日本では芦名定道と星川啓慈は著書「脳科学は宗教を解明できるか?」の中で、芦名「現在のところ、あるいは当分の間、宗教研究者が脳科学の成果に一喜一憂する必要はない、冷静な対応で十分である」、星川「意識や心が物理主義的に還元出来るという主張に対して、このような確信は単なる思い込みとか一種の論点先取であり何らの根拠もなく、また『意識・心・精神・魂・自我等の非物理的・非物質的なものは実体的に存在するのではなく、存在するのは脳内部で生じる物理的現象だけ』という信念を最初から持っているだけである」と述べている。

ドーキンス本の根拠の乏しいと思われる箇所や問題点

(1)ドーキンスは自らを無神論者と言い、無神論者を支援すると言うが

ドーキンスの不可知論の箇所を読めば、一時的不可知論を支持していると判断出来そうで、神を否定できる証拠はいずれ出揃うと考える、無神論に近い不可知論者だと言っても良いのではないか。無神論自体は「神がいる」事を前提とし、それを完全に否定する一種の信仰とも思える…ドストエフスキー著「悪霊」の中に出てくるチホン僧正の「完全な無神論でさえ、世俗的な無関心よりはましだ」の言葉がそれを物語っていると思う。無神論が正義だと言ってしまったら、キリスト教原理主義と同じ構造になってしまう事を自覚しているのだろう。論争相手の英国国教会福音主義でオックスフォード大学教授マクグラス(自然神学者)はドーキンスを無神論原理主義と決め付けているが、これも間違いでそこまでは行っていない。同様にマクグラスも伝統教理を自然神学の新しい解釈で守ろうとする保守派だが原理主義までは行っていないと思う。

ドーキンスが、アインシュタインの発言「私は人格神を想像しようとは思わない。世界の構造が私達の不完全な五感で察知する事を許してくれる範囲で、その前に立ち畏怖の念に打たれるだけで十分(注2)」を否定していないという事は、汎神論的なもの(超自然的な神は全く信じないが、神という単語を超自然的なものではない、あるいは宇宙、あるいは宇宙の仕組みを支配する法則性の同義語として使う)を容認している様にも思える。本来の批判の矛先は一神教・人格神であった筈だが、宗教に寛容である不可知論者まで、教義を批判しないという思い込みだけで同罪扱いする箇所は行きすぎではなかろうか。(原理主義的であると考える)キリスト教の教義については批判的であるが、普遍的宗教を目指そうとするキリスト者や不可知論者も多く、実際は声を上げている(発言力が弱い、採り上げてくれないだけ)。

(注2:アインシュタインの晩年の手紙)アインシュタインが死去する1年前の1954年、ユダヤ人哲学者エリック・グートキンドの著書に対する反論として、ドイツ語で書かれた。この中でアインシュタインは「私とって神という単語は、人間の弱さの表現と産物以外の何物でもない。聖書は尊敬すべきコレクションだが、やはり原始的な伝説にすぎない」と記している。

神の存在証明の例として挙げている神学理論は相当古い時代のもので、論争相手のマクグラスからも神学理論も知らないと言われるようでは、根拠不足といわれかねない。確かに特殊な人しか知らないのがこれまでの神学理論で、普通の人にはほとんど必要ない代物だが、神を論じるなら必ず新しい神学理論(科学的方法論と合理性を援用した自然神学)も調べる必要があるのではないだろうか?また「神の存在証明は科学的な疑問で、何時か我々はその答えを知る事が出来るかもしれない」という文言は、神を超越したものとは考えない論理で、超越したものが神であるという宗教学の一つの定義を無視している。科学的に存在証明が出来た時点で超越者ではなくなり、神でもなくなる。本来証明できないものであるのに、「原理的に永遠の不可知論(どれだけ証拠を集めても、そもそも証拠という概念が適用できない)」を否定する証明も根拠も無い。無視してしまうのは如何なものか?

しかし、そうなると超越したものをどうやって知る事が出来るのだろうかという難題が発生する。イギリスのマルクス主義者テリー・イーグルトンが「宗教とは何か、青土社2010年出版」でキリスト教神学について以下のように述べている。神は存在するということが人間の経験合理性において分かるというのは、妄想だ。同じように神は存在しないということが合理的に証明できたというのも、妄想だ。何故なら、人間に表象し得て分かった神は、神ではないから。分かり得ないと分かったその神も。神ではない。経験思考を超えている謎でなければ、神ではないから。神は死んだと言うが、それは人間の頭の中に抱かれた観念の神。観念となった時点で、その神は死んでいて偶像だ。この論理によれば、神は観念から抱かれた神でもなく、経験合理性で分かるものでもなく、表象しえるものでもなく、経験思考を超える謎と言う事になる。こうなると神は人間には全く理解不能となってしまい、不能なものを信仰の対象とするにはおぼつかない、と言うかもはや人間の世界には存在しないと等しいものになる(無いとは言っていない)・・・「結局否定じゃないのか?」となってしまうが。結局のところ、神を説明しようとすると、キリスト教で言えば擬人化した神として取り扱う、ID論で言えば宇宙のすべて創造した超越した存在、仏教で言えば宇宙仏(仏法)、アインシュタインで言えば物理法則、科学で言えば科学原理などに相当するのだろうか?

議論は必要と思うが、永遠に結論が出ないものもある。歴史的イエスについて言えば、非常に素朴な創造論「人は神により造られた」であったと思われる、それ以上は無い(分かりえない事をいくら考えても意味が無いと思っただろう)。仏陀も、何故宇宙があるのか(存在するのか)の問いをする自体、悟りに至るのに無益なものであるとした。つまり、答えないという事をもって、答えとしている。何故答えないのかについて、仏陀は「毒矢の喩え」という比喩を用いている。『毒矢が刺さって医者の治療を必要としている人が次のように問い質す。誰が毒矢を撃ったのか、どんな身分のものが撃ったのか、どんな弓を使って撃ったのかと。しかし、誰が毒矢を打ったのであれ、どんな弓を使って撃ったのであれ、真っ先になすべきことは毒矢を抜いて医者による治療を受けることである。そうした事を知ったからといって毒が消えるわけではないし、また答えを知るまで毒矢を抜かないというのであれば、問いへの答えをすべて知る前に、この者は死んでしまうだろう。同様に世界が永遠であるかないか、宇宙が無限に広大であるかないか、そうした問いの答えを知ったところで生の苦は変わらずあり、また答えを知るまで何もしないと言ってみても、問いへの答えをすべて知る前にどうせあなたは死んでしまうだろう』と言う。こうした問題の本質を突いていると思う。

(2)宗教の「慰め」効果について

「宗教を持つ人が死を恐れている」という老人ホームの調査だけで、宗教の慰め要素を全面否定している箇所は到底無理がある。それぞれの宗教には死生観があり、宗教者はそれを受容している者が非常に多い。また終末治療で、こうした死生観について希望者には講演なども行われるようになった医学的現実を無視してはならないだろう。「死を恐れる」感情は人類共通のものであり、誰しも長くいきたいと思う、その思いの裏返し。「死を恐れる」一方で、それを受容しようとするのが死生観ではないか。宗教の癒し効果は医学的にも検証され、あると判断されている。都合の悪い箇所は無視して自論に適したものだけを取捨選択するのは詭弁と言われかねないのではないか。

(3)実は宗教を全否定しないが、一神教は排他的で殺戮を犯してきたので非難

本をざっと読めば宗教を全否定していると思ってしまうが、良く見るとちょっとだけ違う。ドーキンスは、仮に神の存在が否定されても、必ずしも宗教を否定するのではなく、宗教は人間が創造した壮大な虚構かもしれないが、その中に人生の助けになる事があるなら、それもまた人間の生き方だと言う。宗教創造の原点が人間自体だから、宗教には人間の持つ崇高な精神と邪悪な心の二面性があり、宗教を利用して自分の欲望を満たそうとする人間も多い。唯一神の一神教は完全に排他的であり、自分の神以外は絶対に認めず、他の宗教の人々と価値観を共有しない(例:ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)。神は同じにも関わらず教義・解釈・預言者の違いだけでも互いに反目し、すぐ戦争を起こす(現実に、同じキリスト教でも伝統的なカトリックと改革派プロテスタントは歴史的に多くの戦争を起こしている)。自分の神(同じで神であっても解釈が違う)を否定されるのは、自分の心の領土を侵される事に等しいと思い込み、そこに戦争の原因がある・・・こうして一神教の宗教から発展して、飛躍して宗教との決別を宣告する。

確かに、世界中の古代の宗教では、生贄をしかも子供を殺す生贄が共通していた。自然災害や戦争の開始時に、神への捧げものとして人間の血を捧げる、戦後は捕虜の血を流す。神は血を欲する、もっとも無垢で罪の無い子供の血を、そう人間が考えたのだ。これから言えば古代人が考えた宗教は、妄想で迷信であった。旧約聖書にもアブラハムの子の生贄物語がある。結局子供は殺されなかったが、それ以降は単に生贄が動物に替わっただけの話である。相変わらず血を捧げ生贄を焼く。新約聖書に至っても、離散ユダヤ人のパウロは旧約聖書の生贄の伝統を用いて、イエスの十字架死は、神への供え物、罪の贖いの血であるという迷信を引継ぎ、近代である今日でさえ教会で十字架で流された血が罪を清めるという、日本の常識人ならばおぞましく感じる(西洋のキリスト者は伝統的文言を何の判断もせずに受入れるが)、迷信が連綿と続いている。何故、神は血を要求するのか?何故キリスト教の神は自分の子の死・血を罪の代償とするのか?神の子は神に属するなら死なないし、血を流す事も無意味だ。一時的に人間でもあった神の子の人間部分を殺して神に捧げ、それで神の怒りを鎮めて人間の罪を赦すのは自作自演であるし、古代の生贄の風習を受継いでいる。超越した万能の神が、愚かな人間が行う行為をするとは到底思えないだろう。こうした事は、宗教の普遍主義化の妨げになるだろう。

一方ドーキンスへの反論として、一神教が歴史的には排他的であったが、本来の理念は排他的ではなかった(この頁を参照)。何故、排他的でないものが排他的になったかまで突き詰める必要があったのではないだろうか(組織権力は腐敗する→宗教も組織権力を持つと腐敗する→権力は逆らうものを排除する)。またドーキンスの、飛躍した「宗教との決別の宣告」は暴論だと思う。批判や否定をするのは簡単だが、その言葉が宗教界に届く事はほとんどない。相手の心を開く文章でなければ、相手の胸を打つ事も出来ない。真の宗教性をじっくり語ったら結果が違うだろうが。確かにキリスト教で言えば、多くの場合、十字軍、魔女狩り、植民地での虐殺と文化破壊、黒人奴隷、インディアン虐殺という歴史を経ても目を覚まさなかった、反省が無い集団組織が多い。人に悔い改めを要求しながら、自らは改めない指導者が多いからだ。しかし、ドーキンズが訴えるほど文明にとって宗教は悪なのだろうか?宗教を糧として生きたガンジーやマザー・テレサなどのような高潔な人々も過去に存在し、宗教の全てが悪だとは断定できないのではないか?一括にした文言箇所は誤解されてしまう。

(4)神による人間の創造の経緯や創造主について、物理的な確証はなくまやかしに過ぎない。設計者仮説は「その設計者を誰が設計したのか」という大問題を孕んでいる

まやかしに過ぎないという事を、ドーキンスは科学的に立証出来ていない。またそれは実証できるものではない事を彼は知っているからこそ、その部分を書かないので、神がいないという科学的な確証を示せてはいない。しかるに、ここでは強い口調で神はいないと言い切るのは、「宗教という証拠のない妄想」からの人類の目覚めを主張するのと大差ない議論で、これもまた証拠の無い妄想に過ぎないと言われかねない。そして、設計者が永遠に存在する者であると仮定すれば、設計者の設計者という繰返しの退行は必要ないと言う可能性も無視してはいけないだろう。理論天文学でも、超ひも理論では宇宙は永遠の昔からあり、消滅したり新たに作られたり、変化もしていると考えるようになってきた。

(5)宗教がなくとも人は道徳的な行動をするという

前述にも記したが、確かに歴史上で宗教を理由に多くの殺戮が繰返されてきた。しかし同様に、無神論者も同じ事を行っきている。ヒトラー(実家はカソリックであったが)、スターリン、毛沢東、アミン等は有名な無神論者だが、彼らは宗教を悪と決めつけ、それだけの理由であまりにも多くの宗教者や民衆を殺戮している。戦争も宗教と関係なく起こっている場合も多い。こうした事から、こうした殺戮自体が、一握りの権力者(宗教権力者も含む)の指導で、先導された庶民が借り出されて行われたという事は言える。宗教だけが悲惨な殺戮を行ったわけではない。しかし、逆に言えば宗教に抑止力があまり無かった事も事実として認めなければならない。一方、過小評価されているが、宗教が貧民を救済し福祉政策に貢献した事実もある。もし今後、宗教が見直されるとしたら、平和と貧困の解消を実現しだした時ではないだろうか?いくら論争しようが、いくら説教しようが、そのような実証を伴わない宗教は淘汰されてしかるべきだと思う。個人的には、宗教も完成された普遍的宗教へと進化しなければならないと考えている。美辞麗句だけでマインドコントロール出来る時代は終わった。